エドムンド・オブ・ラングリー
Edmund of Langley, 1st Duke of York
初代ヨーク公
在位1385年8月6日 - 1402年8月1日
出生 (1341-06-05) 1341年6月5日
イングランド王国、ハートフォードシャー、キングス・ラングリー
初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー(Edmund of Langley, 1st Duke of York, 1341年6月5日 - 1402年8月1日)は、中世イングランド(プランタジネット朝)の王族で、国王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの成人へ達した4番目の息子。エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープ、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの弟、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックの兄。
ヨーク家の始祖であり、彼の孫が後にランカスター朝から王位を奪おうと薔薇戦争を引き起こしたヨーク公リチャード・プランタジネットである。ヨーク朝創始者エドワード4世の曽祖父でもある。 1341年、エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの子として生まれた。中世イングランドの王子の多くがそうであったように、彼にも出生の地であるハートフォードシャーのキングス・ラングリー
経歴
1377年に甥のリチャード2世が即位するとその補佐を行う評議会の一員になり、1385年にはヨーク公に列せられた[2]。しかし1399年、リチャード2世がアイルランドへ遠征に出かけると留守の守備を任されたが、その隙に別の甥ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)が挙兵、たちまち大勢の貴族がボリングブルックに寝返ると麾下の部隊が降伏した。ヨーク公は急遽帰国したリチャード2世と合流したが、彼が廃位されボリングブルックがヘンリー4世として即位すると引退、1402年に出生地キングス・ラングリーで61歳で亡くなり、遺体は同地の托鉢修道会の教会に埋葬された[3]。 最初の妻イザベラ・オブ・カスティルは、カスティーリャ王ペドロ1世とマリア・デ・パディーリャの娘で、三兄ジョン・オブ・ゴーントの2番目の妻コンスタンスの妹であった[4]。彼らは2男1女をもうけた。
家族
エドワード・オブ・ノリッジ(1373年 - 1415年10月25日) - 第2代ヨーク公。アジャンクールの戦いで戦死する。
コンスタンス・オブ・ヨーク(1374年頃 - 1416年11月29日) - グロスター伯トマス・ル・ディスペンサー
リチャード・オブ・コニスバラ(1385年頃 - 1415年8月5日) - 第3代ケンブリッジ伯。ヘンリー5世に対する反逆罪で処刑される。リチャード・プランタジネットの父。
1392年にイサベラが他界すると、ケント伯トマス・ホランドの娘で又従姉妹にあたるジョウン・ドゥ・ホランド[5]と再婚するが子供は生まれなかった。
系図
(プランタジネット朝)
エドワード3世
ジョン・オブ・ゴーントライオネル・オブ・アントワープエドマンド・オブ・ラングリー
(ランカスター朝)
リチャード・プランタジネット
エドワード4世リチャード3世