エドマンド・ウィルソン
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この項目では、著述家のエドマンド・ウィルソンについて記述しています。その他の同名の人物については「エドマンド・ウィルソン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
エドマンド・ウィルソン

エドマンド・ウィルソン・ジュニア(Edmund Wilson, Jr., 1895年5月8日 - 1972年6月12日)は、アメリカの著述家、文芸批評家、作家。20世紀アメリカを代表する文芸批評家の一人に数えられる。
経歴

1895年ニュージャージー州レッドバンクにて、父エドマンド(英語版)と母ヘレン・マーサーのもとに生まれる。1912年プリンストン大学に入学し、クリスチャン・ゴースのもとで文学を学ぶ。1916年、プリンストン大学を卒業し、ニューヨークの「イヴニング・サン」紙記者として文筆活動を開始。1917年には第一次世界大戦での軍務につき、軍病院に配属されてフランスに派遣された(のちに情報部に転属)。

1919年、ニューヨークに戻り、1920年に『ヴァニティ・フェア』誌の編集部(21年まで)、ついで1921年からは『ニュー・リパブリック』誌の編集部に加わり、以後19年間に渡って文芸欄などを担当し同誌で重要な役割を果たす。1922年には最初の著書であるThe Undertaker's Garland(John Peale Bishopとの共著、詩集)を出版、翌1923年には同僚マルカム・カウリーの同級生であった「プロヴィンスタウン・プレイハウス」の女優、メアリー・ブレアと結婚する。1929年には神経衰弱に陥りサナトリウムに入り、同年ブレアと離婚。1931年には主著となる『アクセルの城』を発表し、これによって文芸批評家としての地位を確立した。1933年、一時離職していた『ニュー・リパブリック』誌に戻り、翌1934年には同誌に『フィンランド駅へ』の第1章となるべき記事を発表。1935年にはグッゲンハイム奨学金を得てロシアへと渡った。1938年、作家・文芸批評家のメアリー・マッカーシーと再婚し、長男ルーエルが生まれる。

1941年には第二次世界大戦に対する姿勢の食い違いから『ニュー・リパブリック』誌を辞し、1943年から1944年にかけ『ニューヨーカー』で、書評家として常連寄稿を開始(1966年まで、後任はジョージ・スタイナー)。1946年、マッカーシーと離婚し、エレーナ・ソーントン・マームと再婚。

1954年には死海文書の取材のためイスラエルに行き、翌年に『死海写本』を上梓。1959年から1960年にかけてはハーヴァード大学で講師を務め、1962年にはカナダ文学研究のためカナダを訪れた。1963年、『冷戦と所得税』を発表し、同年大統領自由勲章を授与される。1972年脳卒中にたおれ、ニューヨーク州タルコットヴィルで死去した。77歳。酸素吸入器を持ち込んで執筆を続けた最後の一年を送った書斎兼寝室の壁には、ヘブライ語による旧約聖書申命記モーセの言葉が掲げられていた。
文芸批評家としての活動
『アクセルの城』

1931年に出版された『アクセルの城:1870年から1930年までの想像文学に関する研究』[1] では、アルチュール・ランボーオーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン(戯曲『アクセル』の作者)、ウィリアム・バトラー・イェイツポール・ヴァレリーT・S・エリオットマルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスガートルード・スタインといった作家を取り上げ、象徴主義文学を概説した。


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