エドガー・アシリング
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エドガー・アシリング

エドマンド剛勇王の家系を記した装飾写本に描かれたエドガー
イングランド人の王 (主張)
在位期間
1066年10月14日?12月初頭ごろ
先代ハロルド・ゴドウィンソン
次代ウィリアム征服王

出生1052年ごろ[1]
ハンガリー王国
死亡1125年内、若しくは1125年以降
王室ウェセックス家
父親エドワード・アシリング
母親アガサ(英語版)
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エドガー・アシリング(英語:Edgar Atheling, 古英語:Ateling・ Aetheling・ Atheling若しくは Etheling)[注釈 1] または エドガー2世 (1052年ごろ? 1125年、もしくはそれ以降)とは最後のウェセックス王族(英語版)である。エドガーは1066年に賢人会議によってイングランド王として認められたものの、生涯にわたって戴冠されることはなかった。
家族と初期

エドガーはハンガリー王国で誕生した。彼の父親はエドワード・アシリング、祖父はエドマンド剛勇王であり、エドマンド王の死後、1016年にイングランドを征服したデーン人ヴァイキングのクヌート大王により追放処分を受けたエドワード王子がハンガリー王国にて亡命生活を送っているさなかに誕生したとされる。エドガーの祖父エドマンド・曾祖父エゼルレッド2世・高祖父エドガー王といったエドガー・アシリングの直系の一族は皆、クヌート大王がイングランド征服以前のイングランド王であった[2]。エドガー・アシリングの母親はアガサ(英語版)である。アガサは神聖ローマ皇帝の親族であったとも、ハンガリー王聖イシュトヴァーン1世の親族であったとも伝わっている[3]が、実際のところ彼女の素性については謎に満ちている。エドガーはエドワードの唯一の息子であったが、代わりに2人の姉妹がいた。マーガレット・クリスティーナ(英語版)の2人である.[4]

1057年、当時のイングランド王であったエドワード・アシリングの大叔父エドワード懺悔王の王位後継者候補にエドワード・アシリングが選出されたことにより、エドガーを含むエドワード一族はハンガリーからイングランドに帰還した。エドワードにとっては実に30年ぶりの母国への帰還であった。しかし帰国直後、エドワード・アシリングは病死してしまった[1]。父親の病死を受けてエドガーは唯一生存するウェセックス家の男系王位継承候補者となった[5]
王位をめぐる争い

1066年1月にエドワード懺悔王が崩御した際、エドガーはまだ10代前半であった。この若さゆえに、エドガーはまだ十分にイングランド軍を率いることができるほどの能力を有していないと目されていた[5]。次期国王が若すぎるという点は本来であれば王位継承に際して乗り越えがたい弊害ではなかった。しかし、エドガーの場合は当時の状況的に即位に際する大きな障害となった。なぜならば、懺悔王は1057年まで自身の後を継ぐ王位継承者を定めていなかったため、そのすきを狙った北ヨーロッパの諸侯らがこぞってイングランド王位獲得を狙うようになり、また懺悔王はエドガーに正式に王位を譲渡する仕度すら整えていなかったためだ。このような情勢により、平和裏に王位を継承することは困難となり、戦争は避けられない状況に陥った。このような状況に加え、エドガーを支援する有力な大人の親族がいなかったために、エドガーは来る王位継承戦争で一派閥として戦うことすら困難な立場に置かれることとなった。以上のような情勢の中で、賢人会議は外国諸侯の挑戦に立ち向かえる経験豊富な有力貴族ハロルド・ゴドウィンソン(エドワード懺悔王の義兄)をイングランド王に選出した[3]

同年9月、イングランド王位請求権を主張してノルマンディーからイングランドに侵攻してきたノルマンディー公ギヨーム2世の軍勢とハロルド・ゴドウィンソンの軍勢がヘイスティングズで衝突し、ハロルド王が戦死した。ハロルド王の戦死を受け、残されたアングロサクソン人貴族たちはエドガーの新国王としての選出を思案した[6]。このとき作り上げられたイングランド統治体制では生存している有力貴族らによって政権運営がなされた。カンタベリー大司教スティガンド(英語版)・ヨーク大司教アルドレッド(英語版)・マーシア伯エドウィン・ノーサンブリア伯モーカー(英語版)といったアングロサクソン貴族たちがその体制の中枢を担った。しかし、これらの有力貴族たちはかつてエドガーが王位継承候補から外された際に何の非難もなしにその取り決めに従った面々であり、新体制は結成当時から雲行きが怪しかった。またヘイスティングズの戦いの後も侵攻を続けるノルマン軍に対して軍事抵抗を続けようとする新体制の決議にも疑念も存在した。結局、彼らのノルマン軍に対する反攻は功をなさず、ノルマンディー公ギヨーム2世がウォリングフォード(英語版)でテムズ川を渡河した際、スティガンド大司教はエドガーを見捨てギヨームに降伏した。そしてノルマン軍がロンドンに差し掛かった際には、エドガーを支援していたロンドン市民がギヨームとの協議を開始した。12月初頭、ロンドンに残っていた賢人会議の構成員たちはいまだに戴冠されていない若き王エドガーを連れてバーカムステッド(英語版)でギヨーム公に謁見し服従を誓うことを取り決めた。結果、エドガーのイングランド王選出の取り決めは静かに見送られ、ギヨーム公がウィリアム1世として新たにイングランド王に即位した[7]12月25日、ウィリアム王の戴冠に際して、エドガーとその他のアングロサクソン諸侯たちがウィリアム王に臣従した。
亡命と反逆

1067年、ウィリアム王はエドガーを彼の保護下に置き、他のイングランドの指導者たちと共にノルマンディーの宮廷に連れて行き、その後彼らと共にイングランドに再び帰還した。その後、エドガーは1068年に発生したエドウィン伯とモーカー伯によるノルマン人に対する反乱に関与していたとも、家族と共に故地ハンガリーに戻ろうとして途中で遭難したとも言われているが、いずれにせよ、その年に彼は家族と共にスコットランド王マルカム3世の宮廷に亡命した[8]。マルカム王はエドガーの姉妹マーガレットと結婚しており、彼はエドガーのイングランドの王位を取り戻す試みを支援することに同意した[9]。そして1069年に北部で起こった北部の蹂躙と呼ばれる対ノルマン人反乱が勃発すると、エドガーはスコットランドに逃げ込んだ他の反乱者たちと共に再びイングランドに戻り、少なくとも象徴的な指導者として反乱の中心人物として活躍した。反乱は最初は成功していたにもかかわらず、最終的に反乱軍はウィリアム王によってヨークにて撃破され、エドガーは再びマルカム王のもとに亡命した[10]。その年の夏の終わり頃、デンマークのスヴェン王が派遣したデーン艦隊がイングランドに参陣(英語版)したことを受け、国内各地では新たにノルマン人に対する反乱が勃発した。エドガーと他の亡命者たちはハンバー川に向けて出航し、ノーサンブリアの反乱軍とデーン人と連携した。彼らの連合軍はヨークでノルマン人を圧倒し、ノーサンブリアを制圧したが、エドガーがリンジー王国に対して決行した小規模な襲撃は失敗に終わり、彼はわずかな支持者と共に逃亡し、主力軍と合流した。その年の後半、ウィリアム王はノーサンブリアに進軍し、ヨークを占領し、デンマーク人と講和を締結し、周辺地域を蹂躙した[11]。1070年頭、ウィリアム王は湿地帯地域(ホールダネスまたはエリー島と比定されている)に避難していたエドガーと他のアングロサクソン人指導者を追い詰め、彼らを敗走させた。エドガーは再びスコットランドに撤退した[3]

彼は1072年までスコットランドに滞在し続けた。しかしウィリアム王はその後にスコットランドに侵攻しマルカム王を従属させた[8]。ウィリアム王はスコットランド王と和平条約を締結したが、その条件によりマルカム王はエドガーにスコットランドからの追放処分を下した[12]。彼らの和平条約によりエドガーはスコットランドを去ることとなり、ノルマン人に敵対的なフランドルで亡命生活を送ることとなった。しかし、1074年にスコットランドに再び帰還した。到着直後、彼はウィリアムと対立していたフランス王フィリップ1世から、ノルマンディーの国境近くの城砦と封土を提供された。その土地はノルマンディーを襲撃するのに最適な土地だったとされている。エドガーは部下と共にフランスに向けて船出したが、途中で嵐に遭遇しイングランドの海岸に流れ着いた。エドガーの多くの戦士はノルマン人に追い詰められたが、彼は残りの部隊と共に陸路でスコットランドに逃げ切ることに成功した。


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