エドウィン・ポーチ・モロー
Edwin P. Morrow
第40代 ケンタッキー州知事
任期
1919年12月9日 ? 1923年12月11日
副知事スラストン・バラード
エドウィン・ポーチ・モロー(英: Edwin Porch Morrow、1877年11月28日 - 1935年6月15日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、1919年から1923年まで第40代ケンタッキー州知事を務めた。就任当時の共和党の典型的な政策、すなわちアフリカ系アメリカ人への平等な権利を主張し、暴力行為を鎮めるために武力を使った。1883年に知事候補になった父のトマス・Z・モローや、1895年に知事に当選したウィリアム・O・ブラッドリーから共和党の主義主張について教えを受けていた。二人ともケンタッキー州で共和党を立ち上げた党員だった。
米西戦争(1898年-1899年)に参戦したが、戦闘に直接関わることはなかった。1902年にシンシナティ法学校を卒業し、ケンタッキー州レキシントンで法律実務を開業した。自白強要と偽証によって殺人罪で告発されていた黒人の無罪を勝ち取ったことで、直ぐにその名声を得ることになった。1910年、ウィリアム・タフト大統領からアメリカ合衆国東ケンタッキー地区検事に指名され、1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領から解任されるまで務めた。1915年、友人の民主党員オーガスタス・スタンレーに対抗して州知事選挙に出馬した。選挙では471票という僅差で敗北し、ケンタッキー州知事選挙の歴史では最も接近した結果となった。
モローは1919年州知事選挙にも再度出馬した。対抗馬は民主党現職のジェイムズ・D・ブラックであり、その年の初期にスタンレーがアメリカ合衆国上院議員に就任したことに伴い、副知事から昇格していた。モローは有権者に「1915年の誤りを正す」と訴え、女性参政権、人種暴動の鎮圧など進歩主義的綱領で選挙運動を行った。具体的例を挙げて民主党政権の汚職を告発した。選挙では大勝した。1920年の議会は友好的であり、反リンチ法、州政府の再編成など政策の多くを法制化し実行した。この年には1人の黒人囚人をリンチから救ったことで全国的な評判を呼んだ。暴動を防止しなかったり、鎮められなかった地方役人を辞めさせることに躊躇しなかった。1922年までに民主党がケンタッキー州議会の勢力を取り戻しており、知事任期の後半ではあまり成果を挙げられなかった。知事を辞した後、アメリカ合衆国鉄道労働者評議会と鉄道仲裁委員会の委員を務めたが、選挙で選ばれる役職に就くことは無かった。フランクフォートで従兄弟と共に暮らしていた1935年6月15日に心臓発作で死亡した。 エドウィン・ポーチ・モローは1877年11月28日に、ケンタッキー州サマセット
初期の経歴
モローの幼いときはサマセットの公立学校で教育を受けた[5]。14歳の時にレバノン近くにあるセントメアリーズ・カレッジの予備校に入学した[6]。1891年から1892年までそこで学んだ[6]。その後、ウィリアムズバーグにあるカンバーランド・カレッジ(現在のカンバーランド大学)に入学し、ディベートの世界で頭角を現した[1]。スポーツにも興味があり、アメリカンフットボールではハーフバックを、野球では左翼手でプレイした[7]。
1898年6月24日、米西戦争に従軍するケンタッキー第4歩兵連隊に兵卒として入隊した[1][5][8]。