エドウィナ・マウントバッテン
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ビルマのマウントバッテン伯爵夫人
エドウィナ・マウントバッテン
Edwina Mountbatten, Countess Mountbatten of Burma
セント・ジョン救急旅団(英語版)の制服を着たマウントバッテン

インド総督夫人
任期
1947年2月21日 ? 1948年6月21日
君主ジョージ6世
総督ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン

個人情報
生誕Edwina Cynthia Annette Ashley
(1901-11-28) 1901年11月28日
イングランド ロンドン[1]
死没1960年2月21日(1960-02-21)(58歳)
北ボルネオ直轄植民地 ジェッセルトン
墓地 イングランド ハンプシャー州ポーツマス
配偶者ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン (m. 1922)
子供

ビルマの第2代マウントバッテン伯爵パトリシア・ナッチブル

レディ・パメラ・ヒックス



初代マウントテンプル男爵ウィルフリッド・アシュリー(英語版)

アメリア・カッセル

ビルマのマウントバッテン伯爵夫人エドウィナ・シンシア・アネット・マウントバッテン(Edwina Cynthia Annette Mountbatten, Countess Mountbatten of Burma, CI, GBE, DCVO, GCStJ、1901年11月28日 - 1960年2月21日[2]は、イギリスソーシャライトである。ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンの妻であり、最後のインド総督夫人である。
血縁関係と若年期母とエドウィナ(1907年頃)

エドウィナ・シンシア・アネット・アシュリー(Edwina Cynthia Annette Ashley)は1901年11月28日に、当時保守党の国会議員で、後に初代マウントテンプル男爵となるウィルフリッド・アシュリー(英語版)の長女として生まれた[3]。妹にメアリー・アシュリー(英語版)がいる。社会改良運動家のアントニー・アシュリー=クーパーの父系の曾孫に当たる。母アマリア・メアリー・モード・カッセル(Amalia Mary Maud Cassel, 1879-1911)は資産家アーネスト・カッセルの一人娘であり、エドウィナはアーネストのロンドンでの邸宅ブルック・ハウスで生まれた。カッセルはケルン出身のユダヤ人で、当時ヨーロッパで最も裕福な人物の一人だった。

実母アマリアが1911年に死去した後、父ウィルフリッドは1914年にモリー・フォーブス=センピル(英語版)と再婚した。その後、エドウィナは寄宿学校(最初はイーストボーンのリンクス、次にサフォークのアルデ・ハウス)に送られたが、授業にはあまり出なかった。この時期のエドウィナは不幸だった。継母との関係が険悪であっただけでなく、祖父が裕福なユダヤ系ドイツ人であることから学校でいじめられたためである。後にエドウィナは、学校での経験を「全くの地獄だった」と書いている[4]。この問題の解決のため、エドウィナは母方の祖父アーネスト・カッセルの下で生活することになり、後にアーネストのロンドンでの邸宅ブルック・ハウスのホステスを務めた。
結婚と子供結婚初期のマウントバッテン夫妻

アーネスト・カッセルの下で、エドウィナはロンドン社交界の主要メンバーとなっていた。1920年、エドウィナは、イギリス王室の親戚でロシア皇后アレクサンドラの甥である海軍軍人のルイス・マウントバッテンと初めて出会った。1921年9月にアーネスト・カッセルが死去し、エドウィナは200万ポンド(2021年の物価換算で9440万ポンド、約18億円)とロンドンの豪邸ブルック・ハウスを相続した。なお、当時のルイス・マウントバッテンの給与は年間610ポンド(2021年の物価換算で28791ポンド、約550万円)だった。ウェディングドレスを着たエドウィナ・アシュリー(1923年、フィリップ・ド・ラースロー画)

1922年7月18日、エドウィナとルイス・マウントバッテンはウェストミンスターの聖マーガレット教会で結婚式を挙げた。結婚式には、メアリー王妃アレクサンドラ王太后、エドワード王太子(後のエドワード8世)などのイギリス王族を含む8千人以上が参列した。この結婚式は「この年を代表する結婚式」(ウェディング・オブ・ザ・イヤー)と呼ばれた[5]。その後、ハネムーンでは、ヨーロッパ各国の王室とアメリカを訪問した[6]。カリフォルニアでは、チャールズ・チャップリンがマウントバッテン夫妻のために"Nice and Friendlyという非公開の短い映画を即興で製作した[7]

マウントバッテン夫妻には、パトリシア(1924年2月14日 - 2017年6月13日)とパメラ(1929年4月19日 - )という2人の娘がいた[8]

ドリュー・ピアソンは1944年に、エドウィナを「イギリスで最も美しい女性の一人」と評した[9]

エドウィナは結婚生活中を通して不倫をしていたことで知られており、それを夫にもほとんど隠していなかった。夫も妻の愛人の存在に気づいたが、彼はそれを受け入れ、そのうちの何人かとは友人となっている。娘のパメラは回想録で、母は「男好き」であり、数多くいた母の愛人は次第に「親戚のおじさん」のようになっていったと述べている[10]。パメラは回想録で、エドウィナは子供たちの母親であることよりもその時付き合っている愛人と世界中を旅行することを好む、子供の前にはめったに姿を見せない母親であったと記している[11]。インド首相ジャワハルラール・ネルーとの関係は広く知られており[12]、夫もインドとの同盟関係強化につながるとして、むしろ喜んでいたという。一方、夫ルイスも小説『ジジ』の主人公のモデルとして広く知られるヨラ・ルテリエと交際していたが、エドウィナは交際直後にヨラと対面しており、意気投合して友人となった。

義姉(夫の兄ジョージ・マウントバッテンの妻)のナデジダとは非常に仲の良い親友で、しばしば2人で世界中の様々な危険地帯、難所を冒険する旅行に出かけており、2人の間柄を同性愛だとする噂がささやかれていた[13]
第二次世界大戦


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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