エドゥアルド・リモノフ
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ロシア政治家エドワルド・リモノフEduard Veniaminovich Limonov
Эдуард Вениаминович Лимонов
エドワルド・ヴェニアミノヴィチ・リモノフ
生年月日 (1943-02-22) 1943年2月22日(76歳)
出生地ニジニ・ノヴゴロド州ジェルジンスクゼルジンスク
現職国家ボリシェヴィキ党議長(党首)
所属政党国家ボリシェヴィキ党
もう一つのロシア
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エドワルド・ヴェニアミノヴィチ・リモノフ(ロシア語: Эдуард Вениаминович Лимонов 英:Eduard Veniaminovich Limonov、1943年2月22日 - )は、ロシア人政治家(政治亡命の経験からフランス国籍を使用)の思想家、政治家、作家、新聞記者。民族共産主義を標榜する国家ボリシェヴィキ党の創設者・現指導者として、野党連合もう一つのロシアの幹部に名を連ねている。リモノフは政治的ペンネームであり、本名はエドワルド・ヴェニアミノヴィチ・サヴェンコと記録されている。

本人は自己をネオファシストやネオナチと定義していないが、しばしば政治研究者などからはネオ・ファシズムの運動家と紹介される[1]。その政治的思想は民族共産主義とユーラシア主義(ユーラシアズム)に基づいており、「共産主義によるロシア人を中核としたユーラシア統一国家の樹立」を主張する。

ウラジーミル・プーチン率いる統一ロシアの台頭以降は他の野党との連帯を図っている。現在、自由主義政党全ロシア市民会議の党首でもう一つのロシアの指導者であるガルリ・カスパロフの盟友の一人と認識されている[2]
目次

1 来歴

2 ロシア帰国後

2.1 作家活動

2.2 政治活動


3 著作

4 関連項目

5 出典

6 外部リンク

来歴

リモノフが一般に知られる政治家になるまでの前歴は謎が多く、多くの噂や俗説が飛び交っている。

一説に第二次世界大戦中の1943年2月22日にニジニ・ノヴゴロド州ジェルジンスクで生まれ、両親の都合からウクライナに転居したとされている。後に首都モスクワで作家として活動し、1970年代初期には生計が立てられる程度に成功していたと主張されている。創作の一方で現状のソ連の統治方針に疑問を抱き反体制活動家として行動、ソ連国籍剥奪と国外追放処分を受けたとされている。亡命後、最初はアメリカに住んでトロツキスト[3] や、幾人の作家・政治家・亡命者と親交を持ったが、アメリカを離れてフランスに移り、フランス政府から国籍を与えられたとされる。ゴルバチョフの国籍剥奪者に対する恩赦でソ連国籍を再度付与された事から、ソ連崩壊前後にロシアへと帰国したと述べている。

以上が主に知られているリモノフの前歴ではあるがはっきりとした確証や証明は行われておらず、現在でも依然として謎の多い人物という評価に変わりはない。
ロシア帰国後
作家活動

作家としてのリモノフは徹底したシニシズム(冷笑主義)に貫かれた作風を得意とし、また自身の亡命経験を生かした回顧録なども執筆している。ロシア帰国後はモスクワの英字新聞「ザ・エグザイル」の記者として寄稿しており、アメリカに長期亡命していた経緯から英語に熟達する機会があったものと考えられる。一方で「強いロシア語訛り(ロシアン・イングリッシュ)」であるとも指摘されている。

リモノフの寄稿する記事は殆どが政治的内容だが、しばしば「野心のある若者への助言」など人生相談的な記事も執筆している。
政治活動 政治新聞「Limonka」を手に演説する国家ボリシェヴィキ党の党員。

1991年、ソ連崩壊後に故郷へ戻ったリモノフは新生ロシアの混迷に対してアレクサンドル・ソルジェニーツィンのように幻滅してかつては反対したソ連に対する評価を改めた。ロシア語で手榴弾を意味するスラングを冠した政治新聞「Limonka」を発行、自らが代表編集長として政治活動を展開した。同時に自らが主張するユーラシア主義と民族主義と共産主義の統合を具現化すべく、複数のグループを纏めて国家ボリシェヴィキ党を創設した。同党は今日に至るまで正式な政党として活動を禁止されているが、デモ暴動など激しい街頭活動により過激派として注目を浴びる存在となった。


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