エトルリア
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この項目では、紀元前に存在した都市国家群について説明しています。19世紀初頭に短期間存在したフランスの衛星国については「エトルリア王国」をご覧ください。

現代アフリカの「エリトリア」とは異なります。
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出典検索?: "エトルリア" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年7月)
エトルリアの領域 紀元前750年(濃い草色)、紀元前750年から同500年にかけての拡張(薄い草色)。12の都市国家は二重丸で示した。

エトルリア(ラテン語: Etrusci)は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシア語ではテュッレーニア (Τυρρην?α Tyrrhenia)。

各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成し、祭祀・軍事で協力することもあった。

古代ギリシアとは異なる独自の文化をもっていた。当時としては高い建築技術をもち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である[1]

鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。

紀元前5世紀からカンパニア地方の原住民の自立とサムニウム人の侵入、ポー川流域からはガリア人の侵入を受けて勢力圏を縮小すると[2]、更に紀元前396年共和政ローマの攻撃によりウェイイが陥落、その後150年かけてエトルリアの諸都市はローマの支配下に入り、紀元前91年からの同盟市戦争によってローマ市民権を得た[3]
沿革「エトルリア人」も参照紀元前389年頃のエトルリアの諸都市(緑色)

ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアリュディアからこの地にやってきたという。一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア人はイタリア古来の民族だと述べている。現在の調査では正式には、エトルリア人が小アジアの出自であることに直結するような証拠はない。しかしながら、ある調査ではエーゲ海レムノス島では紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ていることが指摘されている。

また、エトルリア人は海を往来する民族でもあり、古代地中海世界の至るところでその存在が記録されている。一説には古代エジプト第20王朝の記録にある「海の民」はエトルリア人ではなかったかとも言われている。

エトルリア人についての伝存する最古の記述はヘーシオドスの著した『神統記』のなかにある。そこでは、エトルリア人は「ティレニア海の輝けるすべての民」として、イタリアにおける非ギリシア民を含む意味合いで言及されている。ヘーシオドスの著作は紀元前7世紀初め頃に記されたが、この時期(紀元前690年 - 680年)の最も古いエトルリアの碑文に、すでにアルファベットの使用が認められ、これはエトルリア商人が商業地であるクマ(現在のナポリ近郊)でギリシア人との交易から、少なくともこれより70年前に学んだものであることは確実である。

エトルリアは、紀元前10世紀頃から花開いたヴィッラノーヴァ文明に端を発する。可能性として、すでにこの半島の各地にそれぞれ異なる文化圏の形成があったと考えられ、これがかのヴィッラノーヴァ文明にほかならない。詳細は「ローマ・エトルリア戦争」および「同盟市戦争」を参照

王政ローマ時代、ローマの幾人かの王はエトルリア人が務めており、彼らの文化的優位性が窺える[4]。紀元前4世紀、ローマの勢力が強くなると、ウェイイフィデナエを巡る戦争を経てローマと同盟を結び、実質的には従属した。同盟市戦争の結果、紀元前88年頃にローマ市民権を得ている[5]

エトルリアの名前は、近世イタリアエトルリア王国や現代イタリアのトスカーナ州(「エトルリア人の土地」の意)、ティレニア海(「エトルリア人の海」の意)として残っている。
言語

エトルリア人は独自のエトルリア語を使っていた。エトルリア語は紀元前8世紀に、ギリシア人がやっていたアルファベットで記述する方法が採用されたが、文字は異なっており、独自の発音を持っていたと考えられている[6]。文字を読むことはできるが、意味はすべては解読されていない。

ルネサンス時代から、エトルリア語は何なのか研究が続いており[7]、あらゆる言語と比較され類似性が探られたが発見できず、インド・ヨーロッパ語族より前の言語だと考えられている[8]。最近の研究では、エトルリア社会ではエトルリア語フェニキア語の2言語が日常的に使われていたことがわかっているが、未だ解明からはほど遠い。
宗教

伝承によれば、タルクイーニアの農夫が農作業中、タゲス (Tages) という名の神童が土の下から現れ、エトルリア人に知恵を授けたという。彼の言葉は3つの教典にまとめられ、それぞれ『臓卜の書』(libri haruspicini)、『雷電の書』(libri fulgurales)、『儀式の書』(libri rituales) と呼ばれ、これらをまとめて『エトルスキ教典』(Etrusca disciplina) と呼んだ[9]

エトルリアの主神はティン (Tin) もしくはティニア (Tinia) と呼ばれ、他にも様々な役割を分担する神々が存在した。彼らは天上から地底までを16に区分けし、それぞれ1つずつを支配したとされ、この支配領域は動物の内臓、特に肝臓がよく表していると考えられた。そのため、肝臓を用いて神々の意志を伺う、臓卜を重視した。神々には序列があり、主神ティンは3つの雷を持っていた。そのうちの1つは自由に落とすことが出来たが、2つ目の雷を落とすには他の12柱の神々の同意が必要とされ、更に国家の運命を左右する3つ目の雷を落とすためには、その数も性別も名前も不明であった、運命を司る「隠れた神々」の同意が必要とされた[9]

エトルリア人は宿命論を信じており、神々の意志を変えることや避けることは不可能で、せいぜい先延ばしにすることしか出来ないと考えており、あまり享楽的ではなかったという[10]臓卜師 (haruspex) は占いによって神々の意志を諮り、「神々の平和」を守り、ひいては地上の平和を守るため、儀式や祭祀を厳粛に遵守した[11]

このようなエトルリアの占いは、共和政ローマに取り入れられ、ローマ人は『エトルスキ教典』をラテン語に翻訳すると、60人の臓卜師集団を編成して重用した。


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