伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2024年1月)
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール
Edmund Gustav Albrecht Husserl1900年のエトムント・フッサール
生誕 (1859-04-08) 1859年4月8日
オーストリア帝国・モラヴィア
死没 (1938-04-27) 1938年4月27日(79歳没)
ドイツ国・フライブルク・イム・ブライスガウ
時代19世紀の哲学、20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派現象学
研究分野認識論、存在論、数学の哲学
主な概念現象学、エポケー、ノエマ/ノエシス、現象学的還元、過去把持(Retention)と未来予持(Protention)、生世界Lebenswelt、前反省的自己意識、超越論的主観論、物理主義(物理学)的客観主義への批判、後からの覚認、原信憑(ウアドクサ)Urdoxa、現象学的記述など
影響を受けた人物
フランツ・ブレンターノ、カール・シュトゥンプ、カール・ワイエルシュトラス、ベルナルト・ボルツァーノ、Benno Kerry
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ドイツ語: [???tm?nt ?h?s?l]、1859年4月8日 - 1938年4月27日[1])は、オーストリアの哲学者、数学者である。ファーストネームの「エトムント」は「エドムント」との表記もあり、またラストネームの「フッサール」は古く「フッセル」または「フッセルル」との表記も用いられた[2]。 ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。 初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。
概要
生涯
1859年
オーストリア帝国(現チェコ共和国)のプロスニッツ(モラビア)にユダヤ系織物商の子として生まれる。
1876年
オルミュッツのギムナジウム(高等中学校)を卒業。ライプツィヒ大学で三学期間数学・物理学・天文学・哲学を学ぶ。
1878年
春からベルリン大学のカール・ワイエルシュトラス、レオポルト・クロネッカーのもとで数学の研究を続ける。
1881年
ウィーン大学へ移る。
1883年
「変分法」に関する数学論文で学位を取得。ベルリンへ戻り、ワイエルシュトラスの助手となる。一年間の兵役を務める。
1884年
冬から二年間(四学期間)ブレンターノに師事し、強い影響を受けて専攻を哲学に変える。
ハレ大学時代(1886年 - 1901年)
1886年
ルーテル教会に改宗。ブレンターノの推薦で心理学者のシュトゥンプがいるハレ大学へ行く。
1887年
教授資格論文「数の概念について―心理学的分析―」により教授資格を取得。この論文が、のちに出版される『算術の哲学』のもとになる。
1891年
『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』第1巻。ゴットロープ・フレーゲ、パウル・ナトルプから心理学主義を批判される(フッサール自身もこの批判を受け入れ、心理学主義的な考えを捨てたため第二巻の出版は断念され未完)。