エディー・ジョーンズ_(ラグビー指導者)
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エディー・ジョーンズ
生年月日 (1960-01-30) 1960年1月30日(64歳)
出身地オーストラリア タスマニア州
身長1.64 m (5 ft 5 in)
学校マトラヴィルスポーツ高校
ラグビーユニオンでの経歴

ポジションフッカー
シニア経歴
年チーム出場(得点)
?ランドウィック210()
州代表
年チーム出場(得点)
1987?1989ニューサウスウェールズ12(0)
コーチ歴
年チーム
1994
1995?1996
1996
1997
1998?2001
2001?2005
2006
2007
2007
2007?2009
2009?2012
2012?2015
2015-2022
2023
2024-ランドウィック (アシスタントコーチ)
東海大学 (アシスタントコーチ)
日本 (アシスタントコーチ)
サントリー (アシスタントコーチ)
ブランビーズ (ヘッドコーチ)
オーストラリア (ヘッドコーチ)
サラセンズ (テクニカルアドバイザー)
レッズ (ヘッドコーチ)
南アフリカ共和国 (テクニカルアドバイザー)
サラセンズ (テクニカルアドバイザー)
サントリー (ヘッドコーチ)
日本 (ヘッドコーチ)
イングランド (ヘッドコーチ)
オーストラリア (ヘッドコーチ)
日本 (ヘッドコーチ)

エディー・ジョーンズ(英語: Eddie Jones, 1960年1月30日 - )は、オーストラリアタスマニア州バーニー出身のラグビーユニオンの指導者、元選手。2024年から8年ぶりにラグビー日本代表ヘッドコーチに再就任した[1]。2015年から2023年まではオーストラリア代表イングランド代表のヘッドコーチを務めた。東京サントリーサンゴリアスアドバイザー[2]と、ゴールドマン・サックス日本アドバイザリーボードを務めている[3][4]
人物

オーストラリアタスマニア州バーニー出身。メルボルン出身のオーストラリア人の父と、広島県をルーツに持つ日系アメリカ人2世のハーフの母の間に生まれ[5][6][7]、姉が2人いる。シドニー大学体育学を専攻し1982年に卒業(学位は教育学士)。大学卒業後は教員となり、体育を教える。

プロラグビーコーチ転身前の1994年は「インターナショナル・グラマー・スクール」(シドニー)で副校長を務めていた[8]。インターナショナル・グラマー・スクール時代に出会ったヒロコ夫人は日本人で、当時日本語教師を務めていた[8][9]。娘が1人いる。
選手として

現役時代のポジションはフッカー。身長173センチ、体重82キロ(公式発表)と大柄なフッカー選手が揃うオーストラリアラグビー界では小柄な体形であるが機敏な動きで活躍した。ニューサウスウェールズ州代表に選出された経歴を持つ。1992年シーズンで現役生活から引退した。

マトラヴィル・ハイスクール在学時にはD・ノックス(ワラビーズ13キャップ)、エラ兄弟(マーク(ワラビーズ25キャップ)、ギャリー(ワラビーズ6キャップ)、グレン(ワラビーズ4キャップ))らと共にランドウィッククラブでプレーした。
コーチとして
東海大学ラグビー部監督 兼 日本代表スタッフ

1994年まで、シドニー「インターナショナル・グラマー・スクール」の副校長を務めていた[8]

1995年東海大学体育会ラグビーフットボール部の青森合宿に参加するため初来日。1996年に同部コーチに就任[8][10]、ラグビー指導者としてのキャリアはこれが始発点となる。同年ラグビー日本代表フォワードコーチを兼任[8]

ブランビーズヘッドコーチ

1997年4月、サントリーサンゴリアスフォワードコーチに就任するも、スーパーラグビーACTブランビーズヘッドコーチに内定したため同年9月に移籍。ACTブランビーズとは4年契約を結び2001年までヘッドコーチを務める[11]

1999年にオーストラリアン・バーバリアンズのコーチを兼任。

2001シーズンのブランビーズは、スーパー12ファイナルで南アフリカのシャークスに36-6で勝利し初タイトルを獲得。オーストラリアのラグビーチームとしては初となるリーグ制覇を達成[12]

オーストラリア代表ヘッドコーチ

2001年、ワラビーズA代表(準代表、いわゆる二軍)のヘッドコーチを担当。ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズを破る[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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