エディ・カンター
Eddie Cantor
1945年撮影
本名Isadore ItzkowitzあるいはEdward Israel Iskowitz[1]
生年月日 (1892-01-31) 1892年1月31日
没年月日 (1964-10-10) 1964年10月10日(72歳没)
出生地 アメリカ合衆国ニューヨーク
死没地 アメリカ合衆国ビバリーヒルズ
民族ロシア系ユダヤ人[2]
身長173 cm
職業俳優・コメディアン・ダンサー・歌手
ジャンル映画・舞台・ラジオ・テレビ
活動期間1907年 ? 1953年
配偶者アイダ・トビアス・カンター(1914年 - 1962年)※死別
受賞
アカデミー賞
名誉賞(第29回アカデミー賞)
その他の賞
テンプレートを表示
エディ・カンター(Eddie Cantor, 1892年1月31日 - 1964年10月10日)は、アメリカ合衆国の俳優、コメディアン、ダンサー、歌手、作家である。エディ・キャンターと表記されることもある。日本では「カンター」をもじった「勘太」の愛称が付けられ、出演映画の邦題に付けられたこともある。 芸名の「エディ」は後に妻となる恋人アイダ・トビアスが付けたものである。また「カンター (Cantor)」は育ての親である母方の祖母の名字「Kantrowitz」を短縮したものである。これは学校に上がる際の手続きで誤って祖母の名字が使われてしまい、担当事務員がそれを「Kantor」と短縮したことが始まりである[3]。 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにおいて「映画」「テレビ」「ラジオ」の3つの部門で星を贈られている。 1892年にニューヨークでロシア系ユダヤ人移民の息子として生まれる。生後間もなく両親が相次いで亡くなったため、母方の祖母に育てられる。祖母は訪問販売で生計を立て、カンターを育てる[2]。 バウリー劇場
人物
来歴
1920年代にはハリウッドに進出、1930年代にはラジオ番組を持つようになり、人気者となる[4]。
1933年から1935年まで映画俳優組合の代表(2代目)を務める。
ハリウッドの大物プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンと契約した1930年から1936年までの間、ほぼ毎年、ミュージカル・コメディの大作映画に主演し、ハリウッド俳優として全盛期を迎えるが、契約が切れた後は作品に恵まれず、映画俳優として低迷する。しかし、ラジオ番組での人気は1940年代になっても衰えることがなかった[2]。
1950年代に入るとテレビにも出演するようになるが、1953年に心筋梗塞を起こして以降は、半ば引退した状態となる[2]。その一方で、同年12月にはカンターの伝記映画『The Eddie Cantor Story
』が公開される。1964年に心筋梗塞で死去。 10代の始めの頃、カンターは地元の劇場のタレント・コンテストで優勝を続け、舞台に出演するようになった。初期の頃、コニーアイランドにあるキャリー・ウォルシュの酒場でウェイターとパフォーマーの二役をこなし、チップのために歌っていた。若かりしジミー・デュランテがピアノで共演していた。1907年、ニューヨークのクリントン・ミュージック・ホールにて初めて人前でヴォードヴィルの演技で出演した。1912年、ガス・エドワードの『Kid Kabaret』に唯一の20歳以上の出演者として、初めてブラックフェイスを施してジェファーソンというキャラクターを作り出した。その後、アル・リーと「カンター&リー」を結成して巡業した。公演は好評でブロードウェイのトップ・プロデューサーのフローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアの興味をひき、1917年、『Midnight Frolic』に配役された[5]。
舞台
酒場の歌手からヴォードヴィリアンへ