エディ・ヴェダー
Eddie Vedder
パール・ジャムのライヴにて
(2006年5月12日、オールバニ)
基本情報
出生名Edward Louis Severson III
別名Ed Vedder
E. Vedder
Edward Mueller
Eddie Mueller
Jerome Turner
Wes C. Addle
生誕 (1964-12-23) 1964年12月23日(59歳)
アメリカ合衆国イリノイ州エバンストン
ジャンルオルタナティヴ・ロック、フォークロック、グランジ、ハードロック
職業ミュージシャン、ソングライター
担当楽器ボーカル、ギター、ハーモニカ、ウクレレ、アコーディオン、ベース、ドラムス、マンドリン
共同作業者パール・ジャム
グレン・ハンサード
バッド・ラジオ
テンプル・オブ・ザ・ドッグ
ホバークラフト
7ワールド・コライド
C Average
著名使用楽器
フェンダー・テレキャスター
シェクターPTモデル
ギブソン・SG
ギブソン・SGジュニア
マーティン0-18
トゥールーレレ(ウクレレ)[1]
エディ・ヴェダー(英: Eddie Vedder, 1964年12月23日 - )は、アメリカのミュージシャン。オルタナティヴ・ロック・バンド、パール・ジャムのボーカル。 ヴェダーの力強いボーカルはオルタナティヴ・ロックの象徴として広く認識されていて[2]、ローリング・ストーン誌の史上最も偉大なリード・シンガー100人で7位にランクインしている[3]。ヴェダーはサウンドトラックの制作や、他のアーティストのアルバム参加も行っている。2007年、最初のソロ・アルバムとして映画『イントゥ・ザ・ワイルド』のサウンドトラックを発売した。2枚目のソロ・アルバム『ウクレレ・ソングス』は、2011年5月31日にライヴDVD『Water on the Road』と一緒に発売された[4]。 イリノイ州のシカゴの郊外であるエバンストンにエドワード・ルイス・セバーソン3世という名で誕生。まだ1歳のときである1965年に両親が離婚[5]。まもなく母親はミューラーという名の弁護士と再婚したため、ヴェダーはミューラーのことを実父だと思って育っていった。ヴェダーの名はエドワード・ミューラーとなった[6]。ミューラー家がエバンストンに住んでいる間は、7人の子供たちを養育していた[7]。 1970年代中頃に、ヴェダーと3人の弟を含めた家族はカリフォルニア州のサンディエゴ郡へ引っ越した。そして、ヴェダーの12歳の誕生日のときに、母からギターをプレゼントされ、サーフィンとともに音楽に興味をもつようになった。ヴェダーが特に慰められたものは、1973年のザ・フーのアルバム『四重人格』だった[8]。ヴェダーは次のように語っている「僕がまだ15、16歳だった時、自分は一人ぼっちだと感じてたんだ。僕は音楽以外は全て孤独だったよ。[9]」ヴェダーが10代後半だったとき、母とミューラーは離婚した。そのため、母と兄弟はシカゴ方面へ帰ったが、ヴェダーは通っていた高校を転校する必要がないよう、継父とカリフォルニアに残った。 両親の離婚後、ヴェダーは叔父からミューラーが継父であることを初めて教えられた。ヴェダーは子供のころ実父のセバーソンと会ったことはあるが、セバーソンのことを単なる両親の友人だと思っていた。ヴェダーが真実を知ったころには、セバーソンは多発性硬化症で亡くなっていた。ヴェダーは高校の最終学年までには一人暮らしをしてアパートに住んでいて、エンシニータスのドラッグストアで働いていた[9]。結局、学校と仕事の両立ができず、最終学年で高校を中退した[9]。そしてシカゴにいる家族の元に戻り、エディ・ヴェダーに名前を変えた。ヴェダーは母親の旧姓である。 1980年代前半、ヴェダーはウェイターとして働きながらGEDを得て、シカゴ近郊の短大へ通った[6][10]。1984年にヴェダーはガールフレンドのベス・リーブリング ヴェダーはサーフやデストロイ、ザ・バッツなどサンディエゴの複数のバンドに参加していた[7]。それらのバンドの1つであるインディアン・スタイル[12]には、後にレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやオーディオスレイヴのドラマーとなるブラッド・ウィルクが所属していた[13]。1988年、ヴェダーはサンディエゴのプログレッシブ・ファンクロックバンドであるバッド・ラジオにボーカルとして参加した。バンドは最初はデュラン・デュランに影響を受けた音楽だったが、ヴェダーが参加した後はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのようなオルタナティヴ・ロックの音に変わっていった[14]。 1990年にヴェダーはバッド・ラジオから脱退した後はバンドに所属せず、ガソリンスタンドで働いていた[15]。そして、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのドラマーだったジャック・アイアンズに会いにいき、ともにバスケットボールをする間柄となった[16]。1990年の後半にアイアンズは、ボーカルをさがしているシアトルのバンドのデモテープをヴェダーへ渡した。ヴェダーはサーフィンをしに行く前にテープを聞き[17]、後に「Momma-Son」と呼ばれる 3部作の詞を書いた。それは青年の物語で、父親だと思っていた人は父親ではなく、本当の父親はすでに死んでいて、連続殺人犯になり、収監されて結局死刑を宣告される内容である[17]。ヴェダーは3曲のボーカルを録音し、シアトルにデモテープを送った。その3曲とは、後のパール・ジャムの「Alive」、「Once」、「Footsteps」である。
概要
デビュー前
テンプル・オブ・ザ・ドッグ