エディ・コクラン
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エディ・コクラン
エディ・コクラン
基本情報
出生名エドワード・レイ・コクラン
生誕 (1938-10-03) 1938年10月3日
出身地 アメリカ合衆国ミネソタ州アルバートリー マーシャル909番
死没 (1960-04-17) 1960年4月17日(21歳没) イングランド、ウォルトシャー州バース、セント・マーチン病院
ジャンルロカビリー
ロックンロール
カントリー
担当楽器ギター、ヴォーカル
活動期間1955年-1960年
レーベルEKKO、Cash、Crest、Liberty
共同作業者ジェリー・ケープハート(作曲)
シャロン・シーリー(作曲)
ハンク・コクラン(Gt,Vol)
コニー・スミス(Bass)
著名使用楽器
グレッチ♯6120
ギブソン♯L4C
マーティンD-18

エディ・コクラン(Eddie Cochran、本名:エドワード・レイ・コクラン(Edward Ray Cochran)、1938年10月3日 - 1960年4月17日)は、アメリカ合衆国のロック・ギタリスト、シンガー。1960年人気絶頂の最中事故死を遂げた早逝のロックンローラー。代表曲「サマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディ」。2003年ローリング・ストーン誌選出「史上最も偉大な100人のギタリスト」84位。
生い立ち

エディ・コクラン (本名エドワード・レイ・コクラン) は1938年10月3日ミネソタ州アルバートリーで父フランク母アリスの間に生まれる[1]。12歳の時、学校のオーケストラへドラムもしくはトロンボーン奏者としての参加を望んだが願い能わず、代わりに兄ボブからギターを教わる。1951年、一家はカリフォルニアへ移住。同年9月ベルガーデン中学入学、フレッド・コンラッド・スミスに出会う。彼は「コニー・スミス」と呼ばれ、学校のオーケストラでベースを担当し、スティール・ギター、マンドリンも演奏した。エディは新たな環境とコニーに触発されギターの練習に夢中になる。「私が許したならあの子は24時間ギターを弾いていたでしょう。」(母アリス)[2]
初期のキャリア
1953年 アマチュア・ギグ

1953年後半、学校の音楽仲間とトリオを結成。コニー・スミスがスティール、エディはリズムギターを担当、地元の楽器店ベルガーデン・ミュージック・センターの裏手にあるリハーサルルームで練習を行う。この楽器店の経営者バート・キーザーが後にエディのトレードマークとなるギター、グレッチ社製モデル♯6120を売却する事になる。トリオはアマチュアギグを重ね、スーパーマーケットの客寄せ、学校の集会など地元での出演を10?20ドルの報酬で引き受けた[2]。1953年から1955年(日時不明)にかけ友人チャック・フォアマンの自宅で2トラックのテープレコーダーを使用し録音を行う。このマテリアルは2017年現在確認されるエディ・コクラン最古の録音となっている[3]
1954年 プロギタリストへ

6月中学卒業、9月上級生として新学期を迎える。学業以外の時間は全て音楽に費やし地域のミュージシャンとの交流を持ち、学業を放棄してでもプロのミュージシャンとして生きる想いを募らせていた。ベルガーデン周辺の町、サウスゲートやダウニーにはR&Bやカントリーミュージックの基盤があり、エディは幅広いジャンルの音楽的影響を受けていた。[2] この年(日時不明) ゴールド・スター・スタジオでアセテート盤を制作。ドン・ディール(Vol)[注釈 1]、エディ・コクラン(Gt)、チャック・フェリング(Bass)。8曲を録音(当時未発表)[3]

10月、エディはベルガーデンの社交ホール、アメリカン・レギオン・クラブ[注釈 2] に出演中のヒルビリーバンド「リチャード・レイ&シャムロック・バレー・ボーイズ」にグループへの参加を申し出る。メンバーはこれを快諾、リズムギターのボブ・ブルがふとエディに尋ねた。「ハンク・コクランとは親戚かい?」エディはその地元の歌手を知らなかったが、ボブは「ハンクが新しいグループを作ろうしているので二人は会うべきだ」と提案した。1955年1月エディは高校を中退、プロのミュージシャンとなるべく決意する。16歳と4か月の若さであった[2]

ハンク・コクラン (本名ガーランド・ペリー・コクラン)1935年8月2日ミシシッピ州グリーンヴィル生まれ。幼児期に両親を失いテネシー州孤児院で育つ。10代半ば施設を抜け出しニューメキシコ州ホッブスに住む親戚の元へ。叔父からギターコードを教わりカントリーミュージックに強い関心を持つ。中学卒業後1951年までニューメキシコ州の油田で働き、その後カリフォルニア州ベルガーデンに移住する。当時パサディナのラジオ局KXLAでは毎週日曜日に2時間のライブ中継を行うカントリーショー「リバーサイド・ランチョ(Riverside Rancho)」を放送していた。人気DJスクエアキン・ディーコン(Squeakin 'Deacon)がホストを務めるこのショーでは最初の1時間がアマチュアに割り当てられており、1953年ハンクは同番組に非公式の出演を開始する。エディと出会った時にはすでにプロのミュージシャンとしてクラブ出演をしていた[2]
1955年Cochran Brothers
コクラン・ブラザース結成

エディとハンクはグループを結成。当時兄弟デュオは地方の音楽界で非常に人気があり、2人は「コクラン・ブラザース」を名乗る。ハンクがリズムギターとヴォーカル、エディのリードギター、ビリー・ワトソンのベースとシンプルな構成だったが、やがてエディも慣れないながらもヴォーカルを取りハーモニーを付けた。カリフォルニア州の法律により未成年のエディはアルコール類を出すクラブ等には出演出来なかったが、西海岸の音楽シーンは排他的なナッシュビルと異なり新人を容易に受け入れる気風があり、経験を重ねるにつれブラザースの名はカントリー・サーキットでも知られた存在となっていく[2]
ファースト・レコーディング

4月コクラン・ブラザースはスティーブ・スティービンス経営のブッキング・マネージメント会社「アメリカーナ・ミュージック・コープ」に登録される。ミュージック・コープの筆頭株主クリフィー・ストーンはカリフォルニアのカントリー音楽市場を独占する大物プロデューサー。ブラザースはそのストーンが主催する「ホームタウン・ジャンボリー」を始め「タウン・ホール・パーティー」「カントリー・バーン・ダンス」など西海岸エリア主要のステージに出演、そしてスティービンスにより最初の録音が手配される[2]

エコー(EKKO)レコード[注釈 3] はL.Aのマイナーレーベルの一つで、A&Rマンのチャールズ・レッド・マシューズが定期的にメンフィスからカリフォルニアまで録音のために出張していた。5月ハリウッドのサンセット・レコーズで入念なリハーサルの後、4曲が吹き込まれる。そのうちミディアムテンポの「ミスター・フィドル」、ジミー・ロジャースとハンク・ウィリアムズへのトリビュート「トゥー・ブルー・シンギン・スター」がシングルカットされた[2]
ザ・ビッグD

同年秋。テキサス州ダラスの「ビッグ "D" ジャンボリー」出演。毎週末KRLDで放送される「The Big D」は「ルイジアナ・ヘイライド」や「グランド・オール・オープリー」と同等に格付けされる名高いカントリー・ミュージック・ショーだった。二人がダラスに到着したのはエルヴィス・プレスリーが出演した数日後だった。警備員から当日の騒ぎを聞かされた。「私とエディは新しい事が起きているのを感じた」(ハンク)。10月エディはミュージックセンター(楽器店)でバート・キーザーから一人の人物を紹介される。その後エディのアドバイザー、マネージャー、共同作曲者となるジェリー・ケープハートだった。彼はデモ録音をする歌手を探していると言う。数日後エディとハンクはミュージック・センター裏手の小さなレコーディングブースで3?4曲を録音した(当時未発表)。同月エコーから2枚目のシングル発売。このレコードのセールスの不調とエコーのマネージメントの杜撰さを知ったケープハートに野心が芽生える。遠くから眺めている気は無かった[2]

ジェリー・ケープハート(1928?1998)ミズーリ州グッドマン生まれ。プロデューサー、作曲家、マネージャー。1940年カリフォルニア移住。1951年ローズマリー・クルーニーに書いた「ビューティフル・ブラウン・アイズ」がヒット。1956年からエディ・コクランと多数の共同作曲を行う。1961年グレン・キャンベルのソロ・デビュー「ターンアラウンド・ルック・アット・ミー」を手掛ける。
1956年
コンビ解消

1955年12月から1956年3月にかけケープハートはまだエコーとの契約の残るコクラン・ブラザースをバッキングに起用し2枚のシングルを制作、キッシュ(Cash)からリリース。出版社アメリカン・ミュージックに対しコクラン・ブラザースの宣伝を開始、4月4日ゴールドスター・スタジオで同社へのデモ「ピンク・ペグ・スラックス」他5曲を録音。「ピンク?」はエディが初めてソロ・ヴォーカルを取るロカビリー・タイプの曲。 4月(もしくは5月)、エコー3枚目のシングル制作。カントリーからロックンロールへ、新たな方向性を示すセッションとなった。しかしハンクはカントリーシンガーとしての矜持と商業主義とも思える路線変更に対し疑問を抱き、この録音を最後にエディとのコンビを解消する事になる[注釈 4]。また、エコーのレッド・マシューズは事あるごとに干渉してくるケープハートに嫌気がさし「タイアード&スリーピー/フールズ・パラダイス」のリリース(6月)をもってコクラン・ブラザースとの契約を終了する。結果的に二人の別れは双方の音楽キャリアに最高のものをもたらした。この後ハンクはナッシュビルに赴き数々ののヒット曲を送り出し、カントリー・ミュージックの殿堂入りを果たす[2]


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