エティエンヌ2世_(ブロワ伯)
[Wikipedia|▼Menu]

エティエンヌ2世
Etienne II
ブロワ伯
エティエンヌ2世のシール
在位1089年 - 1102年

出生1045年

死去1102年3月19日
エルサレム王国ラムラ
埋葬 エルサレム王国ラムラ
配偶者アデル・ド・ノルマンディー
子女一覧参照
家名ブロワ家
父親ブロワ伯ティボー3世
母親ガルザンド・ド・メーヌ
テンプレートを表示

エティエンヌ2世アンリ (Etienne II Henri de Blois、1045年 - 1102年3月19日)は、ブロワ伯シャトーダン伯、シャルトル伯、モー伯であった人物。サンセール、サン・フロランタン、プロヴァン、モントゥロー、ヴェルテュ、ウルシー=ル=シャトー、シャトー=ティエリ、シャティヨン=シュル=マルヌ、モンフェリクスの領主でもあった。
生涯

ブロワ伯ティボー3世とガルザンド・ド・メーヌの子。1074年よりティボー3世はエティエンヌに実質的に統治を任していたが、1089年の父の死によってブロワ伯となった。

エティエンヌ2世は第1回十字軍を率いた首領の1人であり、妃のアデルに十字軍の進捗状況についてしばしば熱心に手紙を書いていた。また1097年ニカイア攻囲戦における軍評議会の長であった[1] 。長いアンティオキア攻囲戦の最中の1098年、聖地エルサレムまでの道を築くという十字軍の誓いを果たすことなく帰国した。彼はアデルの圧力を受けて2度目の巡礼を行い、一部の郎党は途中で帰国してしまった、小規模の1101年の十字軍に参加した。

1102年、エルサレム王国に滞在していたエティエンヌ2世は、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参加して戦死した。57歳であった[2]
子女

1080年、シャルトルでノルマンディーイングランドウィリアム1世(征服王)の娘アデル・ド・ノルマンディーと結婚し、8子をもうけた。

ギヨーム(1085年 - 1150年) - シュリー伯

ティボー(1090年/1095年 - 1152年) - ブロワ伯、シャンパーニュ伯

ウード - 夭折

エティエンヌ(1096年頃 - 1154年) - ブローニュ伯、イングランド王スティーブンとして即位

マティルドまたはリュシア=マオ - チェスター伯リシャール・ダヴランシュと結婚。1120年、ホワイトシップの遭難で水死。

アリックス(1100年頃 - 1145年) - ジョワニー伯ルノーと結婚。

アンリ(英語版)(1096年頃 - 1171年) - ウィンチェスター司教(英語版)

アンベール - 夭折

アデルの子であることが証明されていない子女は以下のとおりである。[3]

アニェス - ユーグ3世・デュ・ピュイゼと結婚。

エレオノール(1147年没) - ヴェルマンドワ伯ラウル1世と1120年に結婚、1141年に血族同士であることを理由に婚姻は無効とされた(フランス王妃アリエノール・ダキテーヌが妹ペトロニーユとラウル1世を結婚させるために教会に訴えたのが真相とされる)。

アデライード - ミロン2世・ド・モンレリと結婚。

14世紀後半の情報により、エティエンヌにはエマという庶子がいたことが判明した。エマはアングロ・ノルマン貴族ハーバート・オブ・ウィンチェスターの妻で、ヨーク大司教ウィリアムの母であった[4] 。しかし近年の研究では、彼女の異なる親子関係を示唆している[5]
脚注^ Cartier, Etienne (1846) Recherches sur les monnaies au type chartrain frappees a Chartres, Blois, Vendoins, Chateaudum, Nogent-le-Rotrou (Ferche), St. Aignan, Celles, Romorantin, Brosse, etc. Rollin, Paris, page 7, ⇒OCLC 27374228, in French
^ Tyerman, Christopher, God's war: a new history of the Crusades, (Harvard University Press, 2006), 87.


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:10 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef