Ettore Majorana
エットーレ・マヨラナ
エットーレ・マヨラナの写真
生誕 (1906-08-05) 1906年8月5日
イタリア カターニア
死没1938年失踪、1959年まで生きていたと思われる[1]
不明
研究機関フェデリコ2世ナポリ大学
出身校ローマ・ラ・サピエンツァ大学
主な業績マヨラナ方程式
マヨラナ粒子
プロジェクト:人物伝
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エットーレ[注釈 1]・マヨラナ(Ettore Majorana、1906年8月5日 - おそらく1959年以降に死亡)はイタリアの理論物理学者。ニュートリノ質量の研究を行った。1938年3月25日、パレルモからナポリへ船で行く間に不可思議な状況下で失踪した。マヨラナ方程式とマヨラナフェルミオンの名前はこの人物にちなむ。2006年にはマヨラナ賞
(英語版)が設立された。シチリア島のカターニア生まれ。数学の才能に恵まれ、非常に若くしてローマのエンリコ・フェルミのチームに「ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ」(その名は研究室のある通りの住所に由来)の1人として参加した。
おじのクイリーノ・マヨラナ
(英語版)も物理学者であった。1923年、大学で工学の勉強を始めるが、1928年エミリオ・セグレの働きにより物理学に変更した[3]。最初の論文は原子分光学における問題を扱った。
最初に発表された学術論文無限成分における方程式の準備としての手書きのメモ
1928年に発表された最初の論文は、ローマの物理学研究所の若手教授ジョヴァンニ・ジェンティーレ (物理学者)(イタリア語版)の学部生のときに教授との共著で書いたものである。この研究は原子構造のフェルミの統計モデルの原子分光法に対する初期の定量的適用であった(ルウェリン・トーマス(英語版)により同時期に記述されたため、現在はトーマス=フェルミ模型として知られている)。
この論文において、マヨラナとジェンティーレはガドリニウムとウランの実験的に観測されたコア電子エネルギー、および光学スペクトルで観測されたセシウム線の微細構造分裂について十分な説明を与えるこのモデルの状況内で第一原理計算を行った。1931年、マヨラナは原子スペクトルにおける自動イオン化現象(autoionization)に関する最初の論文を発表し、これを"spontaneous ionization"と呼んだ。同年、プリンストン大学のAllen Shenstoneにより独立に発表された論文においてはこの現象を"auto-ionization"(最初はピエール・オージェにより使われた名称)と呼んだ。この名前はそれ以降慣習的なものになり、ハイフンは付けなくなった。
1929年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学で物理学の学士号を取得した。
1932年、時間により変化する磁場中で整列する原子の挙動に関する原子分光法の分野における論文を発表した。I・I・ラービらによっても研究されていたこの問題は重要な原子物理学のサブブランチ、無線周波数分光法のサブブランチにつながった。