古エッダ とは、17世紀に発見された北欧神話について語られた写本。9世紀から13世紀にかけて成立したとされている、古ノルド語で書かれた歌謡集(物語詩群)である。主に北欧神話や北欧の英雄伝説について語っている。一般に「古エッダ」と呼ばれているものは発見された王の写本をその根底としている。
本来「エッダ」とは、スノッリ・ストゥルルソン著である『新エッダ』のことを指していたが、その中で言及されている古い詩の形式や、後に再発見されたそのような形式の詩を指す言葉としても用いられるようになったため、この2つを特に区別するために「古エッダ」と呼ばれるようになった。しかし現在では、王の写本自体はエッダよりも後に編纂されたとされている。
『(新)エッダ』が「散文のエッダ」と呼ばれるのに対して、古エッダは「詩のエッダ」「韻文のエッダ」「歌謡エッダ」と呼ばれることもある。また下記の経緯により「セームンド(セームンドル、サイムンドル)のエッダ」(Samundaredda) と呼ばれていたこともある。古エッダという呼称については「時代差を含意させる点で疑問視され、今ではこの呼び名は廃用となった」とする学者もいる[1]。
王の写本王の写本の発見者ブリュニョールヴル・スヴェインスソン。
現存する最古の古エッダの写本は、1643年にアイスランドのスカールホルトで司教ブリュニョールヴル・スヴェインスソン (Brynjolfur Sveinsson
) によって発見されたものである。この写本は1662年に彼により時のデンマーク王に贈られ、コペンハーゲンのデンマーク王立図書館 (Danish Royal Library) に所蔵されたため、「王の写本」と呼ばれている。写本は1971年にアイスランドへ返還された。この写本の返却は、「国のアイデンティティにかかわるものとして熱狂的に受け入れられ」た[2]。この王の写本には、スノッリの『エッダ』に引用という形で残されていた詩や、北欧神話を物語る詩が数多く含まれており、スノッリが自身の『エッダ』を著す際にその元とした本であろうと考えられ、「古エッダ」と呼ばれるようになった。しかし現在では、実際に成立したのは『エッダ』より遅く、1270年ごろに編纂されたものではないかと考えられている。
古エッダは、ブリュニョールヴルがこれを12世紀の僧セームンドル・シグフースソン (Samundr frodi) (博識なセームンドル)の作だと考えていたことに倣い、また「スノッリのエッダ」に対応して、「セームンドルのエッダ」と呼ばれていたこともあった。しかし、このセームンドルが「古エッダ」の作者であるという説は、現在では否定されている[3]。
スウェーデンの学者グスタヴ・リンドブラド (Gustav Lindblad) は、この王の写本収録のエッダ詩が実は注意深く配列されているものであることを指摘し、また各詩の導入部に置かれている散文は王の写本の編者が詩の内容に注意を払っていたことを示唆し、収録されている詩群は1200年ごろから集められ始められたのではないかという仮説を唱えた[4]。 古エッダに収録されているような形式の詩をエッダ詩(古ノルド語:Eddukvadi)という。エッダ詩では通常古譚律(fornyrdislag
エッダ詩
ケニングも用いられるが、通常スカルド詩ほど多くは用いられず、また複雑でもない。スカルド詩とは対照的に、エッダ詩はほとんどが作者不詳のものである。単に古代北欧の詩のうちスカルド詩ではないものを総称してエッダ詩と呼んでいることもある。 AM 748 I 4to やフラート島本など、王の写本以外の写本にのみ残されていたエッダ詩(『バルドルの夢』『リーグルの歌』など)を、編者によっては古エッダの刊本に含めることがある。これらのエッダ詩は「小エッダ」(Edda Minora エッダ・ミノラ)と呼ばれている[5]。同様に、『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』『勇士殺しのアースムンドのサガ』などのサガ中に挿入・引用されているエッダ風の詩(『フロズルの歌(フン戦争の歌)』『ヒルディブランドルの挽歌』など)もまた、古エッダの刊本に含まれることがあり、その代表例がアンドレアス・ホイスラー、ヴィルヘルム・ラーニシュ
小エッダ