エチオピア帝国憲法
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施行区域 エチオピア帝国
効力廃止
成立1931年7月16日
公布1931年7月16日
施行1931年7月16日
政体単一国家、立憲君主制
権力分立三権分立
(立法・行政・司法)
元首皇帝
立法帝国議会
行政皇帝
司法最高裁判所
廃止1955年
新憲法エチオピア1955年憲法
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エチオピア帝国憲法(エチオピアていこくけんぽう、アムハラ語: ?????? ????? ??-?????)は、かつて存在したエチオピア帝国の憲法である。
エチオピア帝国最初の成文憲法である。1931年に制定されたことからエチオピア1931年憲法とも呼ばれる。
概要に代わる近代憲法として制定した。当時エチオピアの知識人から「非西洋文化国が西洋の知識と技術を自らの中に適合させることに成功した好例である」と考えられていた日本の憲法である大日本帝国憲法を基にして作られている。[1]
憲法を英訳したウィリアム・スターンはその前書きで、「この憲法は絶対君主が自らの意思によって主権を臣民に分け与えた歴史上初の例として特筆に値する」としている。[2] ハイレ・セラシエの自伝によると、彼がまだ摂政であった時代にすでに、当時の女帝ザウディトゥにこれに似た文章を公布することを求めていたという。しかし、憲法制定に伴い権力を失うことを恐れた大貴族たちが「もしこの憲法が制定されたならば、女王の尊厳と権威が傷つきかねない」と反対した。[3] その後、ハイレ・セラシエが即位すると憲法制定のための委員会を設立。委員会を指揮するメンバーの中にはヨーロッパ人のガストン・ジェーズ
歴史
制定まで
この成果をもとに1931年7月16日、皇帝の同席のもとでエチオピア初の近代憲法が発布された。[2] まずハイレ・セラシエはこの法的革新の重要性が国内の上下を問わず理解されていないと考え、憲法の意義を説明するために集会を開いた。集会では憲法の主要な著者であるテクレ・ハワリアット・テクレ・マリヤム
制定後
制定の数か月後にあたる11月3日、ハイレ・セラシエ自身の皇帝位戴冠式が行われ、ハイレ・セラシエは新憲法に基づく新しい議会を招集した。ハロルド・マーカスは「皇帝ハイレ・セラシエはこの制度が国内に愛国心と団結、社会政治学的な変化を齎すことを期待していた」と述べている。[7]
しかしこうした近代化への努力がなされる中で1935年から始まった第二次エチオピア戦争によりエチオピアはイタリアに併合され、ハイレ・セラシエ自身も亡命するなどエチオピアが激動の時代を迎える。
1941年、連合軍によってエチオピアが解放されると、ハイレ・セラシエはこの憲法を再び制定し、議会が1942年11月2日に召集された。[8]
しかし議会が復活したにもかかわらず、ハイレ・セラシエは多くの法を自身の布告の形で成立させ、議会の権利は1943年4月3日の布告まで認められなかった。最終的にこの憲法はハイレ・セラシエの即位25周年にあたる1955年に新しく布告されたエチオピア1955年憲法(英語版)によって廃された。 大日本帝国憲法を範にしており、皇統の神聖性、「皇帝の地位は神聖なものであり、その尊厳は不可侵なものであり、そしてその権限は明白なものである」とした第1章5項など皇帝の権威と権限が強く謳われる。中央や地方の行政、議会、司法、軍隊のすべての権限は皇帝から与えられたものとなった。これは従来地方の権限が強かったエチオピアにおいて国家の運営基盤を皇帝と中央に集中させる狙いがあった。[9] 文章としては7章55項からなるシンプルなもの[10]である。以下に各章の概要を示す。
特徴
第1章:エチオピア帝国と帝位の継承
5つの条項からなり、エチオピアが「エルサレムの王ソロモンとエチオピアのシバの女王の息子、メネリク1世の王朝から間断なく続く系列のサフレ・セラシエ
第2章:皇帝の権限及び大権
12の条項からなり、皇帝の権限について定めている。
第3章:皇帝によって国民に属すものと認められた権利と国民の負う義務
12の条項からなり、「法規」はエチオピアの国民となるための条件と国民の義務について定めるものであると定めている。また、「法律において定める場合を除き(25-27項)」、それらが「戦争や天災などが国民の権利を脅かす場合、皇帝が自らの最高権力によって講じる処置を制限することがない限り(29項)」において国民が享受できる権利も定めている。