エチオピア正教会(エチオピアせいきょうかい、アムハラ語: ?????? ?????? ???? ?? ??????、英語: Ethiopian Orthodox Tewahedo Church)は、エチオピアで独自に発展した、キリスト教の教会である。エチオピア帝国時代は国教とされていた。東方諸教会・非カルケドン派に分類される。
エチオピア正教会はサハラより南で唯一、植民地時代以前から存在する教会である。エチオピアのほか、世界中で公称3600万人の信徒がおり、全東方諸教会中最大の規模を誇る。
沿革と特徴キリスト像(18世紀, エチオピア)エチオピア正教会の総主教カトリコス:アブネ・マティアス(英語版)。先代の総主教カトリコス:アブネ・パウロス(英語版)。エチオピア十字架を持っている。タナ湖を舟で渡る司祭エルサレムにあるエチオピア正教会の聖堂
4世紀にフルメンティ(フルメンティウス)が、アクスム王国で布教したのがエチオピアにおけるキリスト教の始まりとされ、アクスム王国は333年頃にキリスト教を公認した[1]。そしてエチオピアでは、イシス信仰、ユダヤ教経典『タルムード』編纂以前のユダヤ教、それにキリスト教が合わさり、特有のキリスト教が根付いた。430年に、コプト正教会の統制下に入り[2]、単性論を排斥した451年のカルケドン公会議(第四全地公会議)の結果、キリスト教の主流から分裂することになる(ただし、エチオピアからの参加者はおらず、会議の決定が直接伝えられたわけではない[3])。16世紀になると、エチオピア帝国がポルトガルの助けを借りてムスリムと抗争を繰り広げたことをきっかけに、イエズス会の宣教師がやってくるようになり、皇帝からもカトリックへの改宗者が出るまでになった。だが、1632年にその皇帝スセニョスが退位すると、帝位を受け継いだ息子のファシラダスはすぐさまエチオピア正教会を復興させた[4]。1959年にコプト正教会から分離し、独立教会となった[2]。また、エチオピア帝国時代は国教とされていた。1993年のエリトリア独立後、一部がエリトリア正教会(英語版)として分離した。
エチオピア正教会の聖書は81巻で構成され、旧約聖書と新約聖書のほかに、第4バルク書(4 Baruch)、エノク書、ヨベル書、第1-3メカビアン書(Meqabyan 1-3、マカバイ書ではない)といったエチオピアの聖書でしか見られない外典も含まれている[5][6]。