エセックス_(空母)
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エセックス
1944年4月15日、サンフランシスコにて
基本情報
建造所ニューポート・ニューズ造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種航空母艦 (CV) →攻撃空母 (CVA) →対潜空母 (CVS)
級名エセックス級
愛称海軍の最奮闘艦 (Fightingest Ship in Navy)
艦歴
発注1940年7月3日
起工1941年4月28日
進水1942年7月31日
就役1) 1942年12月31日
2) 1951年1月15日
退役1) 1947年1月9日
2) 1969年6月30日
除籍1973年6月1日
その後1973年、スクラップとして売却
要目
基準排水量.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

27,100 トン(竣工時)

28,200 トン(SCB-27A改修後)

30,800 トン(SCB-125改修後)

満載排水量

36,380 トン(竣工時)

40,600 トン(SCB-27A改修後)

41,200 トン(SCB-125改修後)

全長872フィート (266 m)
水線長820フィート (250 m)
最大幅147フィート6インチ (44.96 m)
水線幅97フィート (30 m)
吃水34フィート2インチ (10.41 m)(満載)
主缶B&W製 水管ボイラー×8基
主機ウェスティングハウス蒸気タービン×4基
出力150,000馬力 (110,000 kW)
推進器スクリュープロペラ×4軸
最大速力33ノット (61 km/h)
航続距離20,000海里 (37,000 km)/15ノット
乗員士官・兵員2,600名
兵装

5インチ連装砲×4基

5インチ単装砲×4基

40ミリ四連装機関砲×8基

20ミリ機関砲×46基

装甲

舷側:2.5?4インチ (64?102 mm)

飛行甲板:1.5インチ (38 mm)

格納甲板:2.5インチ (64 mm)

水密隔壁:4インチ (100 mm)

搭載機90 - 100機
その他艦載機用エレベーター(中央2基、舷側1基)
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エセックス(USS Essex, CV/CVA/CVS-9)は、アメリカ海軍エセックス級航空母艦のネームシップ。艦名はマサチューセッツ州エセックス郡に因み、この名前の艦としては4隻目である。

1943年以降の太平洋における主要な海戦全てに参加し活躍したことから「海軍の最奮闘艦」(Fightingest Ship in Navy)の愛称をもつ[1]
艦歴

「エセックス」は1942年7月31日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社でアーテムス・L・ゲート夫人(海軍航空次官の妻)によって命名、進水し、1942年12月31日にドナルド・B・ダンカン(英語版)大佐の指揮下で就役した。訓練航海の後、「エセックス」は太平洋に回航された。
第二次世界大戦
1943年

1943年春の「エセックス」の真珠湾到着は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将をして、新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた[2]。8月に入り第5艦隊が編成され、艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将が、指揮下の高速空母任務部隊の司令官にチャールズ・A・パウナル少将がそれぞれ就任した[3]。「エセックス」は、続いて竣工した空母「ヨークタウン」および「インディペンデンス」とともに第15任務部隊(パウナル少将)を構成し、南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行った。第15任務部隊による南鳥島攻撃は1943年9月1日に行われ、島の施設の70パーセント以上が破壊された。この攻撃は、新採用の機動部隊戦術の実際の運用と試験、訓練を兼ねていた[3]。南鳥島攻撃から帰投すると、「エセックス」は「ヨークタウン」とともに第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に配置換えとなり、10月6日から7日にかけてのウェーク島攻撃に参加した。

その頃、ソロモン諸島の戦いブーゲンビル島の戦いを目前にしており、ニミッツ大将は上陸作戦を支援する空母部隊として南太平洋軍(ウィリアム・ハルゼー大将)指揮下の第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)のみをあてる予定だった。一方で、中部太平洋方面でもギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦の開始が目前に迫っていた。「エセックス」「ヨークタウン」に続く新鋭空母の増勢が続けられていたとはいえ、この時点でソロモン方面に振り向けることが可能だった空母は、第5艦隊から借りていたベテランの「サラトガ」と新鋭の「プリンストン」だけであった[4][5]。アメリカ軍は11月1日のブーゲンビル島上陸を成功させ、翌2日に生起したブーゲンビル島沖海戦大森仙太郎少将率いる日本艦隊を追い払うことに成功したが、11月4日になって栗田健男中将率いる強力な日本艦隊の来航を発見し、ハルゼー大将はこれに対抗するため第38任務部隊をラバウル近海に派遣して11月5日に第1回のラバウル空襲を実施。栗田中将の艦隊は大損害を受けトラック諸島に逃げ帰った。これに飽き足らぬハルゼー大将は、ダメ押しのラバウル空襲を行うことを決め、ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請したのである[6]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、新手の空母任務部隊を派遣することとし、「エセックス」「バンカー・ヒル」「インディペンデンス」を基幹とする第50.3任務群(モントゴメリー少将)を派遣することに決した[6]

護衛艦艇の手配の関係で第2回のラバウル空襲は11月11日に行われ[6]、第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務群は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた[6]。第2回のラバウル空襲は第二水雷戦隊に打撃を与えて成功した。しかし、第50.3任務群は第三次ブーゲンビル島沖航空戦に遭遇し、反復攻撃を中止して[7]ソロモン海域から引き揚げ、エスピリトゥサント島を経由して第5艦隊に復帰し、ギルバートの戦場に向かっていった。11月18日からはタラワ攻撃に参加し、洋上での補給の後、12月5日にはクェゼリン環礁を爆撃して所在の施設や艦船に打撃を与えた。
1944 - 1945年

パウナル少将は、南鳥島攻撃を皮切りに空母作戦を滞りなく進めていったが部下から「慎重すぎる」などと指揮ぶりを批判され、1944年になって早々に更迭された[8]


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