エズラ・パウンド
Ezra Weston Loomis Pound
ヴェネチアでのパウンド(1963年)
誕生 (1885-10-30) 1885年10月30日
アメリカ合衆国、アイダホ州、ヘイリー (Hailey)
死没1972年11月1日(1972-11-01)(87歳)
イタリア、ヴェネツィア
墓地イタリア、ヴェネツィア、サン・ミケーレ島
職業詩人、音楽家、批評家
教育ハミルトン・カレッジ哲学博士、ペンシルベニア大学ロマンス言語学修士
文学活動イマジズム、ヴォーティシズム
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エズラ・ウェストン・ルーミス・パウンド(Ezra Weston Loomis Pound、1885年10月30日 - 1972年11月1日)は、アメリカ合衆国の詩人、音楽家、批評家であり、T・S・エリオットと並んで、20世紀初頭の詩におけるモダニズム運動の中心的人物の一人だった。
彼は、幾つかのモダニズム運動、特に、イマジズム (Imagism
) 及びヴォーティシズムを推進した原動力であり、批評家ヒュー・ケナー (Hugh Kenner)は、パウンドと会った時のことを語って、「私は、私がモダニズムの中心を目の前にしていることを、突如として了解した」と言っている。パウンドは、1年足らずウォバッシュ・カレッジ(英語版)で教鞭を執った後、女性関係が元でカレッジを去った。1908年、22歳の時にヨーロッパに渡ってヴェネツィアに数カ月滞在した後、ロンドンに居を定めた。 初期のパウンドの詩は、ラファエル前派等の19世紀詩や、中世のロマンス文学の他、多くの新ロマン主義的・オカルト / 神秘主義的哲学を読んだことが刺激となって書かれている。ロンドンに移住した頃、パウンドは、フォード・マドックス・フォード (Ford Madox Ford
ロンドンでの転換
第一次世界大戦以前にあって、パウンドは、イマジズム及びヴォーティシズムの登場を引き起こした主要人物だった。これら二つの運動は、ジェームズ・ジョイス、ウィンダム・ルイス(Wyndham Lewis)、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ヒルダ・ドゥーリトル、リチャード・オールディントン (Richard Aldington)、マリアンヌ・ムーア (Marianne Moore)、レベッカ・ウエスト (Rebecca West)、アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカ (Henri Gaudier-Brzeska)等の詩人・芸術家の作品が注目される一助となったものだが、英語でのモダニズム誕生における中心的な出来事と看做しうるだろう。パウンドは、また、彼の友人エリオットが創作し、新しい詩的感性に一般の注意を向けさせることになった詩作品である『荒地』(The Waste Land)の編集も行った。
しかし、戦争は、パウンドの近代西洋文明への信頼を打ち砕いた。彼は、戦後、『セクストゥス・プロペルティウスへの敬意(Homage to Sextus Propertius)』(1919年)及び『ヒュー・セルウィン・モーバリー(Hugh Selwyn Mauberley)』(1920年)を出版すると、ロンドンを立ち去った。これらの詩作品が、併せてパウンドのロンドンでの活躍に対する別れの挨拶であるとしたら、1915年からパウンドが作り始めた 『キャントウズ』(The Cantos)は、彼の行く末を指し示すものだった。左からジェーン・ヒープ(英語版)とミナ・ロイ(英語版)とエズラ アメリカ雑誌『The Little Review』(英語版)より1923 1920年、パウンドはフランス・パリに移り、1921-1924年の間モンパルナスのノートルダム=デ=シャン通り (Rue Notre-Dame-des-Champs
パリ
また並行して、批評的散文による著作、翻訳、2つのオペラ全曲(これにはジョージ・アンタイルの助けを借りた)及び幾つかヴァイオリン・ソロ曲の作曲を行った。1922年、パウンドは、ヴァイオリニストのオルガ・ラッジ(英語版)(Olga Rudge) と交渉を持つようになった。彼らと、ドロシー・シェイクスピアとの3人は、パウンドの死に至るまで、不安定な menage a trois(夫・妻・愛人3人の家庭)関係を続けたのだった。 1920年代中頃、パウンドはイタリアのラパッロ (Rapallo) に移り住んだが、そこでも創作活動に対する触媒であり続けた。若き彫刻家ハインツ・ヘンゲス
イタリア
この時代パウンドはラパッロで、広い範囲に渡ってクラシック音楽・現代音楽が演奏されるコンサートを毎年組織していた。特に、この音楽活動が、死後忘却されていたヴィヴァルディに対する関心が20世紀になって復活することに貢献した。
イタリアにおいて、パウンドはムッソリーニの熱狂的支持者となり、反ユダヤ主義的感情が彼の著作の中に見えはじめる。パウンドは第二次世界大戦勃発後もイタリアに留ってアメリカの参戦に反対し、その阻止のためワシントンD.C.内の政治的縁故を利用しようとした。またイタリアのラジオ放送に出演し、文化的な話題について一連の発言を行った。成り行き上パウンドは政治的な問題にも触れたが、それにより彼がこの戦争に反対していることと彼の反ユダヤ主義とが顕わになる場合があった[2]。拘留時のマグショット
戦争終結間近、パウンドはピサ郊外のアメリカ合衆国陸軍拘留キャンプに投獄され、25日間にわたり開放獄舎に留置された後、テントを与えられた。ここで彼は精神衰弱であったとみなされた。このキャンプで彼は、『ピザン・キャントウズ』(Pisan Cantos)の草稿を書いた。進行中の作品『キャントウズ』のこの部分はパウンドの業績における転換点になっており、彼自身及びヨーロッパの崩壊と、自然界における彼の居場所とについての省察を加えていて、英語で書かれた最初の生態学的詩作品に属すると考えられている。