エスリン研究所
[Wikipedia|▼Menu]
エサレン協会、1972年

エサレン協会[† 1](エサレンきょうかい、: Esalen Institute、通称: Esalen)は、アメリカ非営利的リトリート施設であり、オルタナティブな人間性教育に取り組んでいるカリフォルニア州ビッグサーインテンショナル・コミュニティ(意図を持った共同体)である[1]。ビッグサー温泉とも呼ばれていた[2]。エサレンという名称はアメリカ先住民の一部族名にちなんだもので、その部族の聖地とされる場所は当協会の敷地に所在している[3](→エセレン族)。人口は白人が大部分を占め、高い教育を受けた人が多い[4]海野弘は、ある特定の時期に不思議な人々が集まってきた特別な場所としてアスコナモンテ・ヴェリタになぞらえている[5]

この協会は、1960年代に始まったヒューマン・ポテンシャル運動における最大規模の「成長センター」であり、最も重要な役割を果たした[6]。エサレンの集団感受性訓練グループの革新的な利用、心身相関性への傾注や、現在も継続中のかれらの個人的意識における実験は、後に主流となる多くのアイデアを提起した[7]

エサレンはスタンフォード大学の卒業生マイケル・マーフィーとリチャード・“ディック”・プライスによって1962年に設立された。かれらの意図は、オルダス・ハクスリーが「人間の可能性」(潜在能力)と表現した人間意識のオルタナティブな手法を確認することであった[8][9]。それからの数年間でエサレンは、東洋の宗教・哲学から代替医療や心身介入療法、ゲシュタルト療法に至るまでの、ニューエイジ運動を構成する諸実践と諸信念の施設となった[10]エンカウンターグループゲシュタルト療法、ボディワークの3つは、エサレンで開発された要素の中心であり、1960年代という時代と深く結びついている。これらは、20世紀初頭ヨーロッパから大戦を逃れてアメリカに来た人々によって持ち込まれた文化・研究を源とする[11]。エンカウンターという言葉は現在のプログラムのタイトルには見られず、ボディワークが中心になっている。

2016年まで、エサレンは自己啓発瞑想マッサージ、ゲシュタルト療法、ヨーガ心理学エコロジースピリチュアリティ有機食品といった諸分野において[12]、年間500以上のワークショップを提供した[13]。2016年にはおよそ15000人がそれらのワークショップに参加した[14][15]
歴史
前史

エサレンはスタンフォード大学の卒業生マイケル・マーフィー (著作家)(英語版)とディック・プライス(英語版)によって1962年に設立された。二人は豊かな家の出で、マスコミがビート世代と呼ぶサブカルチャーに親しんでいた[16]。二人とも心理学科の卒業生で、出会った時には世間をドロップアウトし、瞑想をしながら東洋の宗教を学んでいた[17]オロビンド・ゴーシュ(弟子たちはシュリー・オロビンドと呼ぶ[18]

マーフィーは大学で医学部に在籍していたが、大学2年時に偶然アジア研究者フレデリック・スピーゲルバーグ(英語版)のバラモン教の讃歌に関する講義を受け、その壮大さに強い感銘を受け、ものの見方が一変した[19]。さらに哲学とオーロビンドの思想に関する小さく閉鎖的な討論グループに参加し、ある日医学への興味を失ったことに気づき、精神探求の道を進むことを決意した[19]。瞑想を行い、内面の沈黙と精神の集中という瞑想時の精神状態が、ゴルフをしている時と同じであることに気付いた[19]。卒業後徴兵され、軍務の傍らアメリカの先験論者、ドイツ観念論キリスト教神秘主義仏教ヒンドゥー教ルドルフ・シュタイナー神智学の本を読み、オロビンド・ゴーシュの思想の展開、テイヤール・ド・シャルダンの科学を取り入れたキリスト教神学思想の理解に努めた[19]。オロビンドは、マーフィーの人生哲学に最も影響を与えた人物である[20]。軍務の後スタンフォード大学大学院に入ったが、徐々に日常生活に圧迫感を覚えるようになり、神経衰弱に近い状態になり、1956年に大学院をやめ、ヨーロッパを旅し、スコットランドでゴルフを楽しみ、インドに渡りオロビンドのアシュラム[† 2]に入った[21]。16か月後に将来への展望もないままインドを去り、アメリカに戻った。のちに最初の小説となるゴルフをするグルについての幻想的な物語『王国のゴルフ』(Golf in the Kingdom、1971年)の概略を作り、2年間読書と執筆と瞑想と旅行に明け暮れた[21]

プライスは大学生の頃精神分析家を目指していた。指導教官はグレゴリー・ベイトソンだった[22]。大学の心理学科の講義は厳密で科学的、権威主義的であると感じて満足できず、講義を批判して成績も低迷し、徐々に精神が不安定になり、生活を立て直そうと軍隊に入った[23]。夜間勤務のスケジュールになった時に、スタンフォード大学に聴講に行き、スピーゲルバーグの講義を受け、初めて宗教に興味を持ち、講義で紹介されたヴェーダーンダ協会で講座を持つヨーガ行者に会って感銘を受けた[23]。スピーゲルバーグが設立したアジア研究所(American Academy of Asian Studies)の講義を受け、そこには研究所のスターだった哲学者・神学者・講演者でと西洋心理学の統合を試みたアラン・ワッツがいた[24]。ブライスは結婚し多忙な生活を送ったが、ある時自分の中のエネルギーが爆発するような体験をし、過去の経験が絶え間なく生々しく蘇り、そのヴィジョンの合間に僧侶のように何時間も瞑想して休息した。生活を立て直そうと除隊したが、精神を病んだと判断され父によって病院に収容され、統合失調症と診断されインスリン・ショック療法電気ショック療法を受けた。体と心に強いショックを与えるこれらの治療は、彼には治療というより世間をはみ出したこと、精神を病んだことへの罰に思われた[23]。病院への強制収容は1年に及び、その間に離婚を受け入れ、退院後は親族の会社の販売代理業を3年間淡々と続けた[23]。1960年にカリフォルニアに向かった[23]

こうしてマーフィーとプライスは、サンフランシスコにあるオロビンドの弟子が作った小さな賄い付きの瞑想センター出会った[17]オルダス・ハクスリー

二人はエサレン設立前は無名だったが、マーフィーの祖母が所有するビッグサー海岸の小さな温泉(通称スレート温泉(英語版))を経営し、そこで宗教・哲学・心理学を探求し、人生の意味や可能性を探求するある種のフォーラムにするという、志のある、ベンチャービジネスのプランを考えるようになった[16]。当時オルダス・ハクスリーは、ゲシュタルト療法やアレクサンダー・テクニークなどの身体開発法に注目し、組織だってこうした方法を活用し、人間の可能性を開く方法を研究するべきと考えていた[16]。マーフィーとブライスは自分たちと似たヴィジョンを持つハクスリーに手紙で意見を求め、メキシコにある健康食・ヨーガ教室・自己改造のための講義をするという成長センターの先駆的リゾート施設を訪問し、そこでハクスリーの親友ジェラルド・ハードに会うよう勧められた[16]。マーフィーとプライスはハードに会い、今が人類の転換点であり心理革命が必要であると確信をもって語る彼の熱意に圧倒され、自分たちのプロジェクトへの迷いがなくなった[16]

このプロジェクトのために、マーフィーは祖母が持っていたビッグサーの温泉の沸く土地を提供し、プライスは父の助けで資本を用意した[25]
設立後

彼らの指導原理は統合(synthesis)、つまり東洋と西洋の合流、古代と現代、科学と宗教、学問と芸術の統合であった[26]。1962年1月にアラン・ワッツが講演を行い[27]、夏には高名な心理学者のエイブラハム・マズローが訪れてエサレンに興味をもって初期の最も熱烈な支持者になり、彼の言葉はエサレンの教育機関としての価値の証明書になった[28]。政治学者・ジャーナリストのW・T・アンダーソンは、「これまで一つに統合されなかった断片を統合して大衆にそれを紹介した。それによってエスリンは一つのサブ・カルチャーを創造した」のであり、「折衷的」であることが最も明確な方針であり貢献だったと評している[29]心理学者ウィリアム・シュルツ(英語版)、1987年エサレンにて

ヒューマン・ポテンシャル運動では、心理療法のアプローチに東洋哲学が接合され、成長を助けるものとして瞑想を利用したが、特にエサレンはこれをグループで実験することに取り組んだ[30]。1960年代には、フレデリック・パールズがエサレンに、直接的で真実の経験を目指すグループ・ゲシュタルト療法を導入した[31]。初期のセミナーリーダーには、グレゴリー・ベイトソンがおり、のちにパールズらと共に、エサレンの長老のような存在になった[22]エサレンには、当時の著名な心理学者や哲学者の大部分が訪れた[32]心理療法や心身技法の開発実験室のようなものになり、Tグループ(感受性訓練)やゲシュタルト療法なども利用して、人間の潜在能力の覚醒を目指す心理療法や身体開発のテクニックが恐ろしい勢いで開発され[33][32]、様々なワークショップが開催された(→#ワークショップ)。

1960年代後半には、「エサレン・ブックス」というシリーズの出版が始まった[34]

1966 - 67年には、大きな雑誌で好意的な特集が組まれ、カリフォルニアには変革を予感させる空気が漂っていた[35]ヒッピーとの間にも目に見えて関わりができていた[35]。エサレンは世間に知られるようになってきていたが、その影響はカリフォルニアが中心で、全国的な支持は得られていなかった。エンカウンターグループの本拠地というイメージもまだ定着していなかった[36]。エサレンをモデルにした「成長センター」がこの頃生まれ、マーフィーはサンフランシスコにエサレンの支部を開いて様々なプログラムを開催し、ウィリアム・シュルツは大学の教職をやめてエサレンに移り、ここを自分流のエンカウンターの場にしようと計画し、ジョージ・レンナードはエンカウンターを人種問題撲滅に活用する試みを開始した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:101 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef