エストニア人 (エストニアじん、エストニア語: eestlased、旧エストニア語名maarahvas) は、主にエストニア国家に居住する民族である。フィン人と同系統であるバルト・フィン系に属する。彼らが話すエストニア語は、フィン・ウゴル語の主要な言語であり、フィンランド語の方言のひとつでもある。エストニア方言は大まかに北部と南部に分かれている(北東部沿岸の方言も第3の主要方言に分けることもある)。書き言葉は北部の方言に基づき、ラテン文字で書かれている。南部の方言、現在では特にヴォーロ方言とセトゥカ方言において、独自の書き言葉の伝統があり、色濃く残っている。[18][19][20]
ここ数世紀、エストニア人の宗教は福音ルーテル派が中心だったが、エストニア南東部のセト族は古くから正教徒だった。エストニア人とフィンランド人は密接な関係にあり、お互いを兄弟国と見なしている。[21] フィンランド語でエストニア人を指す呼称としては、マーラバスがある。これは、主にフィンランドと関係の深かったヴィルマア(Virumaan)という大きな県に由来する。このヴィルマアが省略されマーラバス(maarahvas)と呼ばれるようになった。その後、エストニア人全体を指す名称として定着していった。また、エストニアの南部に隣接して定住していたラトビア人は、エストニア人のことをエストニア南東部の古代ウガンディン州にちなんで「イガウニ」と呼んだ。エストニア人自身は自分たちの名前を確立する以前は、自分たちのことをフィンランド語エストニア方言で、「地の民」を意味するマーキールと呼んでいた。 意外にもエストニアという地域名が定着したのは19世紀の近代にになってからである。この名称の由来は、 タキトゥスが『ゲルマニア』と言う著書において言及した、バルト海沿岸に住んでいたとされるアエスティ族の名前に基づくものである。しかし、アエスティ族が現代のエストニア人と関係があったのかどうかは不明である。[22] はじめ、バルト氷湖
名称
歴史
有史以前のルーツ
農業が発展し始めたのは中世の初め頃であり、同時期にフィンランド語エストニア方言も生まれ始めたと考えられている。具体的には、最初の居住者が話していた言語について定かではないが、近代エストニアに関連した初期ウラル諸語を話す人々が、約5000年前に現在のエストニアあたりに到着したと主張している[23]。ヨーロッパにおいて約5000年以上も同じ地域に住んでいた最も古く半永続的に居住していた人々がエストニア人の祖先とみなされる[24]。一方、最近のいくつかの言語学的推定によれば、おそらくフィン・ウゴル語派がかなり後の初期青銅器時代(紀元前約1800年頃)の間においてバルト海周辺へとたどり着いたことを示唆している[25][26]。
"Eesti"あるいはEstoniaの名は北東ヴィスワ川に居住していたバルト人に古代ゲルマン人が与えた名前Aestiiに由来すると考えられている。 紀元98年にローマの歴史家タキトゥスは"Aestii"族について最初に言及した。そして、初期スカンディナヴィア人は("Eistland"はアイスランド語で現在のエストニアを意味する単語である)、フィンランド湾の南の地を"Eistland"、そして、人々を"eistr"と呼んでいた。原始エストニア(同様に他のフィン諸語の話者)は、古東スラヴ語の年代記においてChuds (чудь) と呼ばれていた。
エストニア語はフィンランド語と同様にウラル語族のバルト・フィン諸語に属している。エストニア語で書かれた最も古く知られている1例が13世紀の年代記、一方、1525年にエストニア語で最初に書籍を印刷した。
民族意識