エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ
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この項目では、ブエノスアイレス州ラ・プラタのサッカークラブについて説明しています。その他の用例については「エストゥディアンテス」をご覧ください。

エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ

原語表記Club Estudiantes de La Plata
愛称Los Pincharratas
(ネズミに注射する奴ら),
Pincha (ちくりと刺す)
クラブカラー赤・白
創設年1905年
所属リーグアルゼンチンリーグ
所属ディビジョンリーガ・プロフェシオナル
ホームタウンラ・プラタ
ホームスタジアム
エスタディオ・ウニコ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
収容人数53,000[注 1]
代表者 マルティン・ゴロステギ(スペイン語版)
監督 マルコス・アンヘレリ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ (スペイン語: Club Estudiantes de La Plata スペイン語発音: [kluβ estu?djantez de la ?plata]) は、アルゼンチンブエノスアイレス州ラ・プラタ地区を本拠地とするプロサッカークラブである。単にエストゥディアンテス(Estudiantes、[estu?djantes])として知られている。2014年から2021年までは元サッカーアルゼンチン代表フアン・セバスティアン・ベロンがクラブの代表を務めていた[注 2][1]
歴史

1905年、クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタのフットボール愛好者が、クラブと決別することを決めた。理由はヒムナシアがフットボール場を閉鎖して、フットボール部門を運営することに消極的であったからである。そして、1905年8月4日、彼らは新しいクラブを創設することにした。名称はクルブ・アトレティコ・エストゥディアンテス (Club Atletico Estudiantes)。設立時の首脳陣がみな大学生であったことから、エストゥディアンテス(学生)の名称がつけられた[2]

1935年にクルブ・ラ・プラタ (Club La Plata) と合併し、現在のクラブ名となった[3]

1965年にオスバルド・スベルディア監督が就任すると、スベルディア監督は当時としては革新的な戦術(オフサイドトラップの使用や戦術的ファールの遂行など)を用い、傑出した才能を持つ選手たちを率いて黄金期を作り上げた[4]

1967年にはアルゼンチンの5大クラブ以外で初めてリーグ優勝[2]

1968年には、コパ・リベルタドーレスの準決勝でラシン・クラブを、決勝でSEパルメイラス(ブラジル)を破り、アルゼンチンのクラブとしては3クラブ目となる南米制覇を遂げた。フアン・ラモン・ベロンはパルメイラスとの決勝3試合(ファーストレグ、セカンドレグ、プレーオフ)すべてで得点し、得点ランキング3位の9得点を挙げた。インターコンチネンタルカップではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦。ボビー・チャールトンジョージ・ベストらが名を連ねたイングランドの名門に1勝1分で勝利し、初のクラブ世界一となった。

1969年のコパ・リベルタドーレスでは、ウニベルシダ・カトリカ(チリ)やナシオナル(ウルグアイ)を破って2連覇を達成。しかしインターコンチネンタルカップでは、ジャンニ・リベラなどを擁するACミラン(イタリア)に2試合合計2-4で敗れた。キーパーのアルベルト・ポレッティがリベラの頭にひじ打ちを食らわせて大会から永久追放されるなど、セカンドレグは大荒れの展開の試合となった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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