エステ家
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イザベラ・デステ(ティツィアーノ画)

エステ家(イタリア語: Este)は、オベルテンギ家に起源をもつイタリアの有力な貴族家系のひとつである。家名は、11世紀の当主アルベルト・アッツォ2世がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことに由来する。

1196年にエステ辺境伯領はフェラーラ侯爵領に改められ、エステ家当主の称号もフェラーラ侯となった。1242年にフェラーラシニョリーア(僭主国家体制)を確立し、およそ400年にわたって統治した。オビッツォ2世がモデナ侯(1288年)・レッジョ侯(1289年)を兼ねるようになった。1452年にはモデナレッジョが、1471年にはフェラーラが侯爵領から公爵領に昇格した。学芸を重んじ、保護・発展に寄与したこと、美術の保護政策を実践したことでも知られる。
目次

1 歴史

1.1 起源

1.2 イタリアの家系

1.3 フェッラーラ、モデナ、レッジョ公、その他、重要人物

1.4 モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)

1.5 モデナ・レッジョ・マッサ公、カッラーラ候


2 系図

3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

歴史
起源

エステ家は、10世紀末にかけてミラノやリグーリア西部を支配したフランク族のオベルテンギ家(イタリア語: Obertenghi)に由来する。これは、パッラヴィチーノ家、カヴァルカボ家、パストリーノ家、マラスピーナ家と同様の系譜である。エステ家の記録に残る最も古い祖先は、オベルト1世(Oberto I Obizzo)である。10世紀初頭を生きたアダルベルト・デステは、トスカーナの古い君侯の後裔であった。トスカーナの諸侯は、フランク族の法を採用していたが、アダルベルトはランゴバルド族の法に則った。1011年のある記録によると、アダルベルトは侯爵(marchese)と称していた。774年にランゴバルド族に勝利したフランク族により導入されたこの称号は、815年にイタリアで初めて適用された。アダルベルトに続いてエステ家の歴史に登場する人物は、10世紀後半から11世紀初頭に生きたオベルト1世とオベルト2世である。アルベルト・アッツォ2世(996-1097年)をエステ家の先祖とみなすこともできる。彼がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことが家名の由来となったためである。アルベルト・アッツォの子息の一人、グエルフォ4世(1101年歿)は、母方の叔父、カリンツィア家のグエルファ3世の養子に入り、その後カリンツィア公を継承し、1070年にはバイエルン公となった。
イタリアの家系

エステ家のイタリアの家系は、アルベルト・アッツォ2世のもう一人の息子であるフォルコ1世(Folco I)に由来する。フォルコ1世の継承者、オビッツォ1世(Obizzo I, 1193年歿)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と戦った。孫、アッツォ6世(1170-1212年)は第一代フェッラーラ君主(signore)となり、マントヴァヴェローナの執政長官を兼ねた。アルドブランディーノ1世(1190年 - 1215年)(アッツォ6世の息子)は、パドヴァ人の攻撃を受けて、1213年に敗北しエステを失い、アッツォ7世(1205年 - 1264年)は1240年にフェッラーラを失った。アッツォ・ノヴェッロ7世は、1242年にフェッラーラを再征服し、その地で400人のギベリン派(皇帝派)を殺害した。エッツェリーノ3世との戦い(1255年)に勝利したことから、教皇インノケンティウス4世により「教会の擁護者」と命名された。オビッツォ2世(1293年歿)は1264年に終身フェッラーラ候に、1288年にモデナ候に、1289年にレッジョ候に任命された。フェッラーラは教皇領であったことから、エステは1332年に教皇代理となった。リナルド2世は1333年に教皇特使ベルトランド・デル・ポッジェットにより包囲されるものの、4月14日にピナッラ・アリプランディが教皇軍を敗走させた。ニッコロ3世(1384年 - 1441年)の治世下でフェッラーラはルネサンス文化の重要拠点となり、その栄華はさらに後継者たちにより引き継がれ、開花された。


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