エステ家
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エステ家
Casa d'Este
貴族

領地フェラーラ公国
モデナ=レッジョ公国
主家オベルテンギ家
創設1097年
最後の当主エルコレ3世・デステ
現当主なし(直系は断絶)
断絶1829年
分家オーストリア=エステ家女系
イザベラ・デステ(ティツィアーノ画)

エステ家(エステけ、イタリア語: Este)は、オベルテンギ家に起源をもつイタリアの有力な貴族家系のひとつである。家名は、11世紀の当主アルベルト・アッツォ2世がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことに由来する。

1196年にエステ辺境伯領はフェラーラ侯爵領に改められ、エステ家当主の称号もフェラーラ侯となった。1242年にフェラーラシニョリーア(僭主国家体制)を確立し、およそ400年にわたって統治した。オビッツォ2世がモデナ侯(1288年)・レッジョ侯(1289年)を兼ねるようになった。1452年にはモデナレッジョが、1471年にはフェラーラが侯爵領から公爵領に昇格した。学芸を重んじ、保護・発展に寄与したこと、美術の保護政策を実践したことでも知られる。
歴史

エステ家は、10世紀末にかけてミラノやリグーリア西部を支配したフランク族のオベルテンギ家(イタリア語: Obertenghi)の分家と見られている[1][2]。これは、パッラヴィチーノ家、カヴァルカボ家、パストリーノ家、マラスピーナ家と同様の系譜である。エステ家の記録に残る最も古い祖先は、オベルト1世(Oberto I Obizzo)である。10世紀初頭を生きたアダルベルト・デステは、トスカーナの古い君侯の後裔であった。トスカーナの諸侯は、フランク族の法を採用していたが、アダルベルトはランゴバルド族の法に則った。1011年のある記録によると、アダルベルトは侯爵(marchese)と称していた。774年にランゴバルド族に勝利したフランク族により導入されたこの称号は、815年にイタリアで初めて適用された。アダルベルトに続いてエステ家の歴史に登場する人物は、10世紀後半から11世紀初頭に生きたオベルト1世とオベルト2世である。アルベルト・アッツォ2世(996-1097年)をエステ家の先祖とみなすこともできる。彼がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことが家名の由来となったためである。アルベルト・アッツォの子息の一人、グエルフォ4世(ヴェルフ1世、1101年歿)は、母方の叔父、ヴェルフ家のヴェルフ3世の養子に入り、1070年にはバイエルン公となった(新ヴェルフ家)。

イタリアの家系

エステ家のイタリアの家系は、アルベルト・アッツォ2世のもう一人の息子であるフォルコ1世に由来する。フォルコ1世の継承者、オビッツォ1世(Obizzo I, 1193年歿)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と戦った。孫、アッツォ6世(1170-1212年)は第一代フェッラーラ君主(signore)となり、マントヴァヴェローナの執政長官を兼ねた。アルドブランディーノ1世(1190年 - 1215年)(アッツォ6世の息子)は、パドヴァ人の攻撃を受けて、1213年に敗北しエステを失い、アッツォ7世(1205年 - 1264年)は1240年にフェッラーラを失った。アッツォ・ノヴェッロ7世は、1242年にフェッラーラを再征服し、その地で400人のギベリン派(皇帝派)を殺害した。エッツェリーノ3世との戦い(1255年)に勝利したことから、教皇インノケンティウス4世により「教会の擁護者」と命名された。オビッツォ2世(1293年歿)は1264年に終身フェッラーラ候に、1288年にモデナ候に、1289年にレッジョ候に任命された。フェッラーラは教皇領であったことから、エステは1332年に教皇代理となった。リナルド2世は1333年に教皇特使ベルトランド・デル・ポッジェットにより包囲されるものの、4月14日にピナッラ・アリプランディが教皇軍を敗走させた。ニッコロ3世(1384年 - 1441年)の治世下でフェッラーラはルネサンス文化の重要拠点となり、その栄華はさらに後継者たちにより引き継がれ、開花された。なかでもレオネッロ・デステ(1407年 - 1450年)はとくに注目される。

フェッラーラ、モデナ、レッジョ公ほか重要人物

ボルソ・デステ(1413年 - 1471年)は、1452年に皇帝フリードリヒ3世からモデナ・レッジョ公の称号を、1471年には教皇パウルス2世からフェッラーラ公の称号を授けられた(モデナとレッジョは神聖ローマ皇帝の支配下にあった一方で、フェッラーラは教会国家の領土であった)。ニッコロのもう一人の息子であったエルコレ1世(1431年 - 1505年)は、1481-82年にポレジーネのエステ家支配地域の大部分を失った。エルコレの娘達のうち、ベアトリーチェ(1475年 - 1497年)はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ、通称イル・モーロと結婚し、イザベッラ(1474年 - 1539年)はマントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガに嫁入りした。

エルコレ1世の後継者アルフォンソ1世(1476年 - 1534年)は、ロドリーコ・ボルジャ(後のローマ教皇アレクサンデル6世)の私生児ルクレツィア・ボルジャの3人目の夫となった。(なお、マントヴァゴンザーガ家に嫁いだイザベラ・デステ(イザベッラ・デステ)は、アルフォンソ1世の姉にあたる。)当時のフェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つで、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まった。ヴェネツィアに対抗するカンブライ同盟に加盟し、ヴェネツィアと教皇ユリウス2世の間に平和的合意が成された後にも、フランスのルイ12世と同盟関係を保った。したがって、教皇はフェッラーラ領の空位を宣言し、1510年に破門した。1526年から1527年にアルフォンソ1世は、神聖ローマ皇帝カール5世が編成した教皇クレメンス7世に対する遠征に加担することで(=ローマ掠奪)、1530年にフェッラ―ラ公の地位を取り戻した。

アルフォンソの跡を継いだエルコレ2世(1508年 - 1559年)は、フランス王ルイ12世の娘レナータと結婚した。教皇とフランスと共に、1556年にスペインと戦った。弟である枢機卿イッポーリト2世(1509年 - 1572年)は有名なヴィッラ・デステティヴォリに建設した。

モデナ・レッジョ公(1598年-1796年)

エルコレ2世の息子アルフォンソ2世(1533年 - 1597年)には子供がいなかったため、エステ家直系の血筋は絶えることとなった。皇帝ルドルフ2世はアルフォンソの従弟にあたるチェーザレ・デステ(1533年 - 1628年)をモデナ・レッジョ公として認めた一方、教皇クレメンス8世はフェッラーラに関して同様の処置を行うことを拒み、1598年にフェッラーラを教皇国家の直轄領として取り戻した。最後の公爵エルコレ3世は1796年にフランス軍により廃位させられ、1803年に没した。エルコレ3世の一人娘マリア・ベアトリーチェが神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの息子フェルディナントと結婚することにより、新たにハプスブルク=エステ家が始まった。

モデナ・レッジョ・マッサ公、カッラーラ候

1814年に再興されたのち、マリア・ベアトリーチェの息子フランチェスコ4世がモデナ・レッジョ・マッサの公爵、カッラーラの支配者となった。後継者となった息子フランチェスコ5世は1859年に廃位し、公爵領は1860年にサルデーニャ王国に併合された。


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