エジンバラ城
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エディンバラ旧市街にそびえ立つエディンバラ城

エディンバラ城(Edinburgh Castle、エジンバラ城[1])は、スコットランドエディンバラにある。キャッスル・ロックという岩山の上に建つ古代からの要塞で、エディンバラのシンボルである。スコットランドでは、グラスゴーケルビングローブ美術館・博物館に次いで多くの観光客が訪れている。人間の定住は紀元前9世紀前後からといわれている。城内で最も古い12世紀初期の建築物であるセント・マーガレット教会堂を除くと、城の建築物のいくつかは16世紀以前のものである。

多くの城がそうであるように、エディンバラの要塞は軍事活動の中心地だった。エディンバラ城はいまだにセレモニー用として駐留部隊のいる数少ない城である。かつてはロイヤル・スコッツ連隊やロイヤル・スコッツ・ドラグーン・ガーズ連隊の本部があった。1915年に陸軍がレッドフォード兵舎へ移ったとはいえ、城と陸軍のつながりは深い。朝6時から9時まで城の城門歩哨が立ち、スコットランド王の宝冠の警護に当たっている。

現在、城の管理と運営のほとんどを行うのはスコットランド政府の外局であるヒストリック・スコットランドである。
目次

1 みどころ

1.1 デイヴィッズ・タワー

1.2 ハーフ・ムーン・バッテリー

1.3 クラウン・スクエア

1.4 キングズ・ロッジング

1.5 グレート・ホール

1.6 クラウン・ルーム

1.7 セント・マーガレット教会堂

1.8 モンス・メグ

1.9 ミリタリー・タトゥー

1.10 ワン・オクロック・ガン


2 ギャラリー

3 脚注

みどころ
デイヴィッズ・タワー

デイヴィッズ・タワーは、1376年デイヴィッド2世により建設が委任された。当時の主流の建築であり、城の主要な入り口であったが、のち塔が宿泊する客人や貴族のため拡張され、原型の入り口はゲスト・ハウスに塗り込められた。

カトリックを信仰した女王メアリー1世1567年プロテスタントジェームズ・ヘップバーンと結婚し、これに反対する貴族たちの大規模な反乱を引き起こした。反乱軍側に投降したメアリーはロッホ・リーヴン城へ監禁された。メアリーに忠誠を尽くす一部の貴族の助けを借り、彼女は城から逃亡しイングランドへ亡命した。エディンバラ城守護だったウィリアム・カークカルディーは一年余り城に立てこもった。幼王ジェームズ6世(のちのイングランド王ジェームズ1世)の摂政モートン伯ジェイムズ・ダグラスは、エリザベス1世より支援を受け、砲撃と銃撃でデイヴィッズ・タワーを崩壊させた。城の陥落後、ウィリアム・カークルディーは絞首刑にされ、ハーフ・ムーン・バッテリーを含む多くが再建された。
ハーフ・ムーン・バッテリー

ハーフ・ムーン・バッテリーは、古いデイヴィッズ・タワーの後に建設された砲台である。この壮大な防衛の設備は今日も城の東側を占める。かつてディヴィッズ・タワーの客室であった部分は、冬の間だけ軍事用ハトの小屋にされたりしていた。
クラウン・スクエア

クラウン・スクエアは城の頂上の砦である。スクエアの北側に国立戦争記念館、東側にロイヤル・パレス、南側にグレート・ホール、西側にクイーン・アン棟がある。
キングズ・ロッジング

15世紀から、かつて王族の居室のあった部分である。メアリー1世が嫡子ジェームズ6世を生んだ産室、またはメアリー・ルームも含む。
グレート・ホール

グレート・ホールは1511年ジェームズ4世の命令で建てられた。スコットランド議会のミーティング会場として使われた。現在時折儀礼的行事に用いられる。
クラウン・ルーム

スコットランド王家の宝冠や宝石類が展示されている。宝冠は1540年に作られ、スコットランド産の金、94個の真珠、10個のダイアモンド、33個の貴石と半貴石でできている。スコットランド王が代々戴冠してきた運命の石と呼ばれる『スクーンの石』も展示されている。


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