エジプトのピラミッド(アラビア語: ????? ???、英語: Egyptian pyramids)は、エジプトに位置する、角錐の形をした古代のピラミッドである。2008年時点で138基が発見されている[1][2]。そのほとんどは、エジプト古王国からエジプト中王国時代のファラオかその家族の墓である[3][4][5]。ピラミッドは古代エジプト語では「上昇」を意味する「メル」という単語で呼ばれていた。
エジプトのピラミッドのうち最も古いものは、ジェゼル王のピラミッドで、エジプト第3王朝の時代に作られた。このピラミッドと周囲の建造物はイムホテプによってデザインされ、化粧石で造られた世界で最も古いモニュメントだと考えられている。
エジプトのピラミッドで最もよく知られているのは、カイロ郊外にあるギーザのピラミッドである。ギーザのピラミッドのいくつかは、歴史上最も大きな建築物だと考えられている[6]。
ギザにあるクフ王のピラミッドは、エジプトのピラミッドで最も大きいものであり、世界の七不思議の一つに数えられている。
歴史的な発展サッカラにあるファラオのマスタバ
エジプトの王朝の初期の時代から、マスタバとして知られるベンチ状の構造物は大きな意味を持っていた[7][8]。
文献上最初のエジプトのピラミッドはイムホテプにより作られたものであり、それはジェセルのために計画されたと考えられている。マスタバの上部同士を積み重ね、頂上まで何段にもなる大構造物にすることを最初に考えたのはイムホテプだと言われている。それを実現したものがジェセルの階段ピラミッドであり、死んだファラオの魂が階段を登って天国に行けるようになっている。これこそが後のエジプト人にイムホテプを神聖視させた重要な業績であった[9]。
ピラミッドが最も多く作られた時代は、ファラオの権威が絶対的であった時代と一致する。ギザのピラミッドの近くにある多くの有名なピラミッドができたのもこの時代である。時とともに権威は分散し、ピラミッドの建設に必要な資源や熱意は失われていき、ピラミッドは小さくみすぼらしくなっていった。
ピラミッド建設時代が終息してからもその影響は周辺諸国にも及んだ。特に現在のスーダンにいたヌビア人にその影響は著しい(ヌビアのピラミッド)。ヌビア人たちは北進してエジプトを支配し、第25王朝を成立させたが、その後アッシリアに追われて南遷(クシュ王国)、その都ナパタ(英語版)や近隣のゲベル・バルカルに多くのピラミッドを建造した。紀元前661年にナパタを都とする時代が終わり、紀元前300年から300年頃のメロエを都とする時代になると、ピラミッド再建の機運が再び高まり、200以上のピラミッドが作られた。
古代ギリシャの歴史家であったヘロドトスがエジプトを訪れた紀元前400年代の末期、ピラミッドの周辺は既に、特権階級者たちの観光地と化していたとされる[10]。
ピラミッドのシンボルクフ王の大ピラミッドの内部構造の図示。内部構造は各ピラミッドにより異なる。
エジプトのピラミッドの形は、ベンベンを模していると考えられ、エジプト人は地球はここから創られたと考えていた。またこの形は太陽の光線を表しているとも考えられている。多くのピラミッドの表面は磨かれて反射率の高い石灰岩でできており、遠くから見た時に輝いて見える。
ピラミッドは死者のモニュメントだと一般的に考えられているが、特定の神学的原則からこの説に反対し続けている者もいる。ある説では、ピラミッドは一種の甦りのマシーンとしてデザインされたというものもある[11]。