エシハ
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Ecija

  
 アンダルシーア州
 セビリア県
コマルカコマルカ・デ・エシハ
面積978.73 km2
標高106m
人口40,320 人 (2015年)
人口密度41.2 人/km2
住民呼称ecijano, -na o
astigitano, -na
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}Ecija スペイン内エシハの位置 Ecija セビリア県内エシハの位置

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度32分28秒 西経05度04分45秒 / 北緯37.54111度 西経5.07917度 / 37.54111; -5.07917座標: 北緯37度32分28秒 西経05度04分45秒 / 北緯37.54111度 西経5.07917度 / 37.54111; -5.07917

エシハ(スペイン語: Ecija)は、スペインアンダルシア州セビリア県ムニシピオ(基礎自治体)。コマルカ(郡)としてはシエラ・スール・デ・セビリア(スペイン語版)に属する。ローマ帝国の属州だったヒスパニア・バエティカの中心都市のひとつであり、かつては司教座がおかれていた。
地理ヘニル川を渡る鉄道橋

アンダルシア州の州都セビリアから85km東の田園地帯にある。自治体域は広大な盆地に広がっているため、山の斜面などの急勾配が顕著に少ない[1]。自治体の総面積978km2のうち480km2は3度以下の勾配であり、498km2は3度-7度の勾配である[1]グアダルキビール川の支流であるヘニル川が市街地中心部を流れている。エシハの夏季の降水量はほぼないに等しいが、雪解け水が流れるために河床が乾燥することはない。雨季にはヘニル川の流量が増す。

経済の中心は、オリーブ・穀物・野菜などの農業、牛や馬などの牧畜、繊維産業である。石鹸、オリーブオイル、チョコレートなどを生産しており、繊維製品、皮革製品、セラミック製品などを製造している[2]

20以上の教会や修道院があり、その建築様式はゴシック様式、ムデハル様式、ルネサンス様式、バロック様式、アラブ様式など様々である。

フィリピンのルソン島にあるヌエヴァ・エシハ州はアンダルシアのエシハから命名された。ファウスト・クルサット・イ・ゴンゴラ(英語版)(1690年-1701年)によって前哨基地としてヌエヴァ・エシハが設置され、1801年4月25日にヌエヴァ・エシハ県となった。1896年には一時的にヌエヴァ・エシハ市となっている。
地区

中心地のエシハ地区に加えて8つの集落が自治体を構成している[3]
エシハの地区一覧(人口は2009年)


エシハ : 38,444人

ラ・アセニュエラ : 67人

ロス・アレナレス : 89人

セッロ・ペレア : 832人

イスラ・デ・ビカリオ : 159人

イスラ・レドンダ : 363人

ナバラグルーリャ : 188人

サン・アントン : 83人

ビリャヌエバ・デル・レイ : 190人

気候珍しく雪が降ったエシハ(2006年1月29日)

エシハは大陸型地中海性気候である。降水量は不規則であり、6月から8月の夏季がもっとも少なく、秋季と春季がもっとも多くなる。2010年12月には深刻な洪水に見舞われ、特に12月6日の豪雨では大きな被害が出た[4]。年降水量は400mm-500mmであるが、2010年には1,075.8mmを記録した[5]。年平均湿度は61%であり、年平均風速は1.8m/秒である。

ヘニル川が形成する盆地に位置するため、夏季は常に暑く乾燥する。7月と8月には最高気温が平均して摂氏37度となり、摂氏40度を超える日も珍しくない。冬季の最低気温は摂氏5度以下となり、湿度も高い。盆地にあるために冬季には頻繁に霜が降り、暖気より重い冷気が市街地にたまる。降雪は稀であり、近年では2006年1月29日と[6]2010年1月10日に記録したのみである。

1966年7月には最高気温が摂氏48度に達した[7]。1959年7月9日にはフランスのフィガロ紙がエシハの最高気温を摂氏49度と報じ、1959年7月10日にはフィガロ紙の記事に基づいてスペインのABC紙もこの記録を報じているが、この記録が確かなものであるのか議論がなされている[8]。スペインにおける最高気温記録を有しているため、エシハはスペインで「アンダルシアのフライパン」と呼ばれる[9]

エシハの歴代最低気温記録は、2005年1月28日に観測した摂氏マイナス9.1度である[5][10]。2010年12月には洪水に見舞われた[11]

エシハの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)14.9
(58.8)16.5
(61.7)19.7
(67.5)22.7
(72.9)27.0
(80.6)33.4
(92.1)36.9
(98.4)36.6
(97.9)31.3
(88.3)25.4
(77.7)19.0
(66.2)15.2
(59.4)25.0
(77)
日平均気温 °C (°F)9.2
(48.6)10.6
(51.1)13.1
(55.6)15.5
(59.9)19.3
(66.7)24.7
(76.5)27.6
(81.7)27.9
(82.2)14.1
(57.4)19.1
(66.4)13.0
(55.4)10.0
(50)17.9
(64.2)
平均最低気温 °C (°F)3.4
(38.1)4.7
(40.5)6.6
(43.9)8.4
(47.1)11.5
(52.7)16.0
(60.8)18.3
(64.9)19.2
(66.6)16.8
(62.2)12.8
(55)6.9
(44.4)4.8
(40.6)10.9
(51.6)
降水量 mm (inch)49.7
(1.957)74.0
(2.913)63.9
(2.516)45.2
(1.78)43.0
(1.693)5.1
(0.201)0.2
(0.008)5.6
(0.22)28.2
(1.11)75.0
(2.953)52.9
(2.083)96.4
(3.795)539.2
(21.228)
出典:アンダルシア州政府農業水産省[5]

人口

2010年1月1日時点の登録人口は40,534人であり、49.33%の19,996人が男性、50.67%の20,538人が女性だった[12]。1960年頃のエシハの人口は50,000人に迫っていたが、他地域への人口転出によって、1970年代初頭には36,000人をわずかに上回るまでに減少した。2015年の国勢調査による人口は42,320人であり、セビリア県ではセビリアドス・エルマーナスアルカラ・デ・グアダイーラ、ウトレーラ(スペイン語版)、マイレーナ・デル・アルハラーフェ(スペイン語版)に次いで6番目だった。

2010年には全住民の3.38%に相当する1,370人が外国籍だったが、これはスペイン平均の12.22%を大きく下回っている[13]。出身地別ではルーマニアが595人、ブルガリアが145人、コロンビアが129人、中国が63人、モロッコが54人の順だった[13]


エシハの人口推移 1842?2010

出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[14]、1996年 - [15]

歴史古代ローマ時代のモザイク

古代ギリシア古代ローマの時代、この地域にはアスティギ(Astigi)という名の街があった。グナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルが争ったローマ内戦では、紀元前45年にムンダ(現・オスナ)でムンダの戦いが起こり、アスティギはカエサルの側に付いた。


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