エゴン・クレンツ
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エゴン・クレンツ
Egon Krenz
クレンツの肖像写真 (1984年)

ドイツ民主共和国
第3代 最高指導者
任期
1989年10月24日 ? 1989年12月3日
前任者エーリッヒ・ホーネッカー
後任者消滅
ドイツ社会主義統一党
第3代中央委員会書記長
任期
1989年10月18日 ? 1989年12月3日
前任者エーリッヒ・ホーネッカー
後任者消滅
ドイツ民主共和国
第4代 国家評議会議長
任期
1989年10月18日 ? 1989年12月3日
最高指導者エゴン・クレンツ
前任者エーリッヒ・ホーネッカー
後任者マンフレート・ゲルラッハ
ドイツ民主共和国
第3代 国防評議会議長
任期
1989年10月24日 ? 1989年12月6日
国家評議会議長エゴン・クレンツ
前任者エーリッヒ・ホーネッカー
後任者消滅
ドイツ社会主義統一党党中央委員
任期
1973年 ? 1989年
中央委員会書記長エーリッヒ・ホーネッカー

個人情報
生誕 (1937-03-19) 1937年3月19日(87歳)
ドイツ国 コルベルク
(現: ポーランド 西ポモージェ県コウォブジェク
市民権ドイツ人
(東ドイツ国民)
政党 ドイツ社会主義統一党
配偶者エリカ・クレンツ
子供2人
受賞カール・マルクス勲章
労働赤旗勲章

エゴン・ルディ・エルンスト・クレンツ(ドイツ語: Egon Rudi Ernst Krenz, 1937年3月19日 - )は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家。同国第4代国家評議会議長(在任:1989年10月 - 同年12月)、ドイツ社会主義統一党書記長(在任:1989年10月 - 同年12月)。

1989年、18年余りにわたって東ドイツの最高権力者として君臨してきたエーリッヒ・ホーネッカーを失脚させてその後任に就いた。就任後は緩やかな東ドイツの改革を図ろうとしたが、元々ホーネッカーの子飼いの部下であったため、国民だけでなく党内部からも支持を集められず、権力奪取から約2ヶ月という短期間で退陣した。
プロフィール
生い立ち

ポンメルンのコルベルク(現在のポーランドコウォブジェク)で生まれる。父は仕立て屋。第二次世界大戦末期の1944年に一家は戦火を避けダムガルテン(現:メクレンブルク=フォアポンメルン州)に移住した。
FDJとSED

1953年に、東ドイツの支配政党ドイツ社会主義統一党(SED)の青年団組織である自由ドイツ青年団 (FDJ) に加入、1955年にドイツ社会主義統一党に入党。機械工の修業をしていたが辞めて学業に転じ、1957年に国家教員免許を取得して卒業。卒業と同時に兵役に従事し、1958年には兵士代表として第5回党大会に参加している。

兵役終了後、リューゲン地区のFDJ第一書記、次いで1960年からロストック地区のFDJ第一書記を歴任。1961年にFDJ中央委員会書記に就任し、大学など高等教育機関での党活動の責任者になった。1964年から1967年までモスクワにあるソビエト共産党の党中央委員会学校に留学し、社会学学士号を取得。次いでFDJ中央委員会宣伝担当書記に就任し学校における党の宣伝活動に従事(‐1974年)。同時期ピオネール団「エルンスト・テールマン」の代表を兼任。1971年、人民議会議員に選出、議会委員に就任。

1973年、SED党中央委員に選出。1974年にはFDJ中央委員会第一書記となり東ドイツ唯一の公的青年団組織を指導する立場になった。1981年には国家評議会委員に選出され、さらに1983年には党中央委員会政治局員に選出。1984年には国家評議会副議長に選出され、議長であるエーリッヒ・ホーネッカーに次ぐナンバー2の地位に昇りつめた。そもそもFDJはホーネッカーが設立した組織であり、その生え抜きであるクレンツは「ホーネッカーの秘蔵っ子」と言える存在であり、SED党内ではホーネッカーの「プリンス」とまで揶揄されていた。
書記長就任クレンツ議長(中央)による国家評議会(1989年10月24日)

1989年、クレンツは中央選挙管理委員会委員長として同年5月の統一地方選挙(ドイツ語版)における不正の責任者となった。同年6月に中華人民共和国で起きた虐殺事件である天安門事件については「秩序を維持するために何か行われたようだ」と述べたにとどめた。

しかし1980年代半ばにソビエト連邦の指導者の地位に就いたミハイル・ゴルバチョフの指導の下始まった、ソビエト連邦の民主化(ペレストロイカ)の影響は、他の東ヨーロッパ諸国同様、東ドイツも避けて通れなかった。いち早く改革を進めていたハンガリー人民共和国が1989年5月2日にオーストリアとの国境線の鉄条網の撤去に着手し、鉄のカーテンが綻ぶと、多く東ドイツ市民は夏の休暇を利用してハンガリーへと出国した。治安・青年担当の党書記でもあったクレンツは、8月にホーネッカーに出国者数を報告し、党の政治局で大量出国問題を討議するよう進言したが、ホーネッカーはクレンツの進言に耳を貸さず、クレンツに長期休暇を命じて10月まで政権中枢から遠ざけた[1]。その直後の8月19日、ハンガリーでは指導部の改革派と市民グループの手によって汎ヨーロッパ・ピクニックが起き、東ドイツ市民がオーストリア経由で西ドイツへ亡命するようになった。

国民の大量脱出と国内の民主化運動が頻発したが、ホーネッカーは強硬手段を取って弾圧する方針であった。しかし、10月7日の建国40周年のために東ドイツを訪れたゴルバチョフは明らかに改革を行おうとしないホーネッカーに対して不満げな態度を取り[2]、帰国時にはクレンツら党幹部に対して「行動したまえ」とホーネッカーを退陣させるよう示唆した[3]

これを受けたクレンツやギュンター・シャボフスキー(SED政治局員・ベルリン地区党委員会第一書記)ら党幹部はソ連指導部とも連絡を取りながらホーネッカーの失脚工作を進め、1989年10月17日の政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議を可決させた[4]


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