エコール・デ・ボザール
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この項目では、フランスの美術学校全般について説明しています。パリのエコール・デ・ボザールについては「パリ国立高等美術学校」をご覧ください。

エコール・デ・ボザールパリ国立高等美術学校(2010年撮影)
種別特別高等教育機関(Grands etablissements)
設立年1682年または1671年[1]
予算10,6 millions ?
校長Jean de loisy
学生総数530
所在地フランス
パリ6区リヨンなどフランス各地
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度51分24.16秒 東経2度20分0.68秒 / 北緯48.8567111度 東経2.3335222度 / 48.8567111; 2.3335222
キャンパス都市型
公式サイト ⇒Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts
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エコール・デ・ボザール(フランス語:Ecole des Beaux-Arts, ENSBA)は、17世紀パリに設立されたフランス高等美術学校である。

350年間以上にわたる歴史があり、建築絵画彫刻の分野に芸術家を輩出してきた。現在は建築がここから切り離されている。パリ6区マラケ河岸から入ってボナパルト街(ボナパルト通り)に面して構えたパリ・ボザール校の正面には、ニコラ・プッサンとピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、フランス・ルネサンス建築の断片で創造された壮大な中庭が目の前に展開する。一般的にボザールと言えば、パリ国立高等美術学校を指す。
歴史パリ国立高等美術学校の入り口(2012年撮影)「芸術アカデミー」を参照

ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされ、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。この学校で研鑽に励んだ有名芸術家には、ジェリコ、エドガー・ドガウジェーヌ・ドラクロワドミニク・アングルクロード・モネギュスターヴ・モローピエール=オーギュスト・ルノワールジョルジュ・スーラらがいる。一方でセザンヌは2回、入学に失敗している[2]。また、エミール・ベルナールは、文体を疑われ処分された[3]

1648年ルイ14世は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、枢機卿ジュール・マザランアカデミー・フランセーズ(フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後古典主義建築の母体となる建築アカデミーが1671年に時の宰相ジャン=バティスト・コルベールによって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世からルイ16世までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任したカトルメール・ド・カンシーなどは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せウィトルウィウスを再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業はパエストゥムの古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・グリーク・リバイバルの思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を建築家が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。

1789年に勃発したフランス革命によって、革命に共鳴した若い芸術家たちは旧体制のアカデミーに対抗して芸術コミューンを成立させ、1793年には王立アカデミーは廃止されたが、建築アカデミーは教授をつとめていたジュリアン・ダヴィド・ルロワがコミューンとして主宰することで学校は存続する。その後18世紀なかばに旧アカデミーにかわり学士院が発足し、美術の教育機関が復活。さらにナポレオン失脚後の王政復古にともない、学士院の芸術部会はそのまま絵画・彫刻・建築の3分野の、各芸術アカデミーと呼称を変更し発足する。この王政復古の時期に、フランスではさまざまな組織や期間が整理と統廃合が行われ、別々の芸術アカデミーであった絵画・彫刻・建築などもひとつに統合した教育機関の創設、学校名「エコール・ロワイヤル・エ・スペシアル・デ・ボザール(Ecole royale et speciale des Beaux-Arts)」が、1816年12月18日国王命令により決定される。こうして1819年に、名称を国立の美術学校(エコール・ナシオナル・シュペリウール・デ・ボザール)に改称となった。当初学生は男性のみで、女性は1897年から入学を許可された。

カリキュラムは画家と彫刻家育成の「絵と彫刻アカデミー」と建築家育成の役割を果たすセクション「建築アカデミー」に分割される。両方のプログラムは、留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせ、当然のことながら入学、その後の学習に対し学生全員が古典芸術の教養と絵画表現の基本技量を求められた。また、年1回グラン・プリ・ドゥ・ローム(ローマ大賞)というコンクールを主催し、受賞者にはローマで研究するために全額給与の奨学金を与えていた。賞を入手する3つのトライアルがおよそ3カ月に1回続く。前身のアカデミー時代から実施されていた制度である、各分野の専門家がパトロン・担当教育者となるアトリエ制を採用し、その後150年にわたって徒弟制度に似せた方式で学生を教育していった。大革命から第一帝政にかけてすでにアカデミーを取り巻く形でいくつかのアトリエが存在し、入学を許可された学生らが師匠たる芸術家のもとで修行に励んだ。

第二次世界大戦後の改革

1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立した[4]。これと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果ジョルジュ・キャンディリスエミール・アヨーら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC'グループが分離、セーヌ右岸の8区グラン・パレにアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、1968年2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。

1968年の5月革命をきっかけに、ソルボンヌ大学に続いて構造改革を要求して立ちあがったボザールも大学の改革が行われ、解体そして分校制といった結果を招くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、ディジョンブールジュナンシーリヨンと、ロリアンレンヌカンペールブレストというように各地に分割された。この中で最も有名なのがパリのエコール・デ・ボザールとして続いている、ルーヴルからはセーヌの対岸にあたるセーヌ左岸の6区に位置しているパリ学校で、現在の校舎、本館は1830年に、卒業生のフェリックス・デュバンによる建築作品である。

2009年現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。

建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃はギリシア建築に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、ジャック・イニャス・イトルフのローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。


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