エクバタナ
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イランにおけるハマダーンの位置

エクバタナ(Ecbatana、エクバターナ)は、古代ペルシアにあった都市の名。現在のハマダーンイランハマダーン州)にあたる。古代ペルシア語ではハグマターナ(Ha?gmatana)と呼ばれ、原義は「集いの場所」となる[1]。エクバタナはメディア王国の首都と考えられているほか、その後のアケメネス朝パルティアの夏の王都(夏営地)にもなった。

古代ギリシア語ではエクバタナ(ギリシア語: ?κβ?τανα, Ekbatana)となるが、アイスキュロスおよびヘロドトスによる資料ではアグバタナ(ギリシア語: ?γβ?τανα, Agbatana)となっている。ダレイオス1世が刻ませたベヒストゥン碑文にもその名は登場している。ヘブライ語聖書ではエズラ記(6章2節)に「ヘブライ語: ?????????‎」(近代ヘブライ語の発音では A?meta アフメタ、ティベリア式発音では ?A?m???。ラテン語聖書では Ecbatana エクバタナと訳されている)の名で登場する。
歴史イラン国立博物館所蔵の、アケメネス朝期の黄金のリュトン。エクバタナで発掘されたハマダーン近郊のアルヴァンド山中にあるギャンジ・ナーメ碑文(Ganj Nameh)ハマダーンに残る、モルデカイエステルの墓所とされる建物。ユダヤ人女性エステルは「エステル記」の主人公で、アケメネス朝の妃となったおりにユダヤ人を救ったとされる

エクバタナについて書かれた資料によれば、エクバタナはアケメネス朝以前のイラン高原において最も大きく、最も影響のある都市だったとされる。エクバタナの名は遠く古代ギリシアにも届いていた。紀元前470年には詩人アイスキュロスが「ペルシア人」の中でエクバタナ(アグバタナ)について触れている。歴史家ヘロドトスは、メディア初代国王デイオケス(ダイウック)はエクバタナの丘の上に宮殿を建てさせ、その周りに民を住まわせたという。またエクバタナの町は、七重のそれぞれ色の異なる城壁(ハフト・ヘサール。内側から、白色、黒色、緋色、青色、橙色、銀色、金色)で囲まれていたと述べている。最も内側に宮殿と宝物庫があり、城壁はヘロドトスが住んでいた当時のアテネの城壁によく似ていたという。

ただし近代になりアッシリアなどから発見された史料では、デイオケス(ダイウック)はマンナエの王でありメディアの王ではないことが分かっており、ヘロドトスによるメディア史の記述も史実を反映したものではないとされる。ヘロドトスが描写したエクバタナは誇張が含まれるが、こうした丘の上の城塞都市は紀元前1千年紀のアッシリアの浮き彫りにも描かれ、メソポタミアからイラン高原にかけて同様の都市が多数あったと見られる。

メディア王国の権力の中心であったエクバタナは、アケメネス朝の征服活動の目標ともなった。新バビロニア最後の王ナボニドゥスの在位6年目(紀元前549年)、アケメネス朝の初代皇帝キュロス2世は、メディア最後の王アステュアゲス(イシュトゥメグ)からエクバタナを奪ったとされる。キュロス2世およびその息子カンビュセス2世はエクバタナに宮殿を置いた。

後にペルセポリススーサが帝国の中心となりエクバタナの力はかげりを見せたが、エクバタナの都はアルヴァンド山の麓にあることから、暑いペルセポリスやスーサから皇帝が避暑に訪れるアケメネス朝の夏の都として使われた。

またザグロス山脈の入口を扼するエクバタナは交通の中心でもあった。アケメネス朝を貫く「王の道」は、アナトリア西部のサルディスからバビロンを経て首都スーサへと通っていたが、バビロンからはエクバタナを通りザグロス山脈を超えてバクトリア方面へと通る道が分岐していた。ハマダーン中心部から南西に12kmの山中にある、ダレイオス1世クセルクセス1世によるギャンジナーメ碑文、およびケルマーンシャーの東30kmにあるダレイオス1世のベヒストゥン碑文は、この「王の道」沿いにある。またダレイオス1世と7人の協力者が、皇帝スメルディスになりかわり皇位簒奪を行ったとされる大神官のガウマタを殺した場所も、エクバタナの城であったとされる。

アレクサンドロス大王紀元前330年にエクバタナを占領し、都を逃げ出したダレイオス3世ベッソスに殺され、アケメネス朝は滅亡する。エクバタナを占領したアレクサンドロスは、ここでペルシア遠征を終了させ、軍を解散した。アレクサンドロスは将軍パルメニオンをメディアで処刑したが、処刑の場所はエクバタナとされる。アレクサンドロスの親友ヘファイスティオンが没したのもエクバタナであった。ヘレニズム期、「エピファネイア」(Epiphaneia)と改名されたエクバタナはヘレニズム文化の重要都市となり、アケメネス朝の宮殿は紀元前3世紀においてもセレウコス朝により使用されていた。

その後のパルティアでもエクバタナは夏の都となり、セレウコス朝が作った造幣工場が引き続き使われ、ドラクム(drachm)、テトラドラクム(tetradrachm)などが鋳造された。

サーサーン朝時代にはエクバタナの重要性は低下していった。エクバタナは時折、夏の宮廷としても使われたものの、パルティア時代までエクバタナ周辺でみられたような大規模な工事の跡は、サーサーン朝以降は見つかっていない。


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