エクトル・ベルリオーズ
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エクトル・ベルリオーズ
Hector Berlioz
1855年のベルリオーズ

基本情報
出生名ルイ・エクトル・ベルリオーズ
Louis Hector Berlioz
生誕1803年12月11日
フランス共和国 ラ・コート=サンタンドレ
死没 (1869-03-08) 1869年3月8日(65歳没)
フランス帝国 パリ
学歴パリ音楽院卒業
ジャンルロマン派音楽
職業作曲家
指揮者
音楽評論家
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ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスロマン派音楽作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』(レクイエム1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。
生涯
幼年期

フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Cote-Saint-Andre)に生まれる。ここはリヨングルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語文学歴史地理数学音楽(初歩程度)を習う。
青年期

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする。息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。

1823年パリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールオペラと作曲を学ぶ[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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