エクスタシーレコード
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エクスタシーレコーズ

設立1986年4月
設立者YOSHIKI
現況活動停止
販売元エクスタシー・ジャパン:メディアファクトリー(音楽部門)
エクスタシー・レコーズ・インターナショナル:ワーナー・ミュージック[1]
ジャンルロックメタルパンク
日本
本社所在地東京ロサンゼルス
公式サイト公式ウェブサイト
恵比寿プライムスクエアタワー

株式会社エクスタシーレコーズ (Extasy Records) は、日本ミュージシャンであるYOSHIKIによって1986年に設立されたレコード会社およびインディーズレーベルである。日本のロック、特にヴィジュアル系ロックを広く世間に広めた先駆的存在である。本社は東京都渋谷区広尾の恵比寿プライムスクエアタワー11階にあった。LADIES ROOMGEORGEなどが取締役などの職に就いている。TOKYO YANKEESの梅村総一郎も生前取締役であった。HIDEも生前は制作部長を務めていた。多くの人気を博したヴィジュアル系ロックバンドが所属していた事で、全盛期は「東のエクスタシー、西のフリーウィル」とも呼ばれていた。フリーウィルとはCOLORダイナマイト・トミーこと冨岡裕が設立した音楽プロダクションである。

2000年にメジャーレーベルのエクスタシー・ジャパン (Extasy Japan) と[2]、エクスタシー・レコーズ・インターナショナル (Extasy Records International) が発足した。
概要

YOSHIKIによるレーベルの趣旨は「たてまえだらけのメジャー業界を本音でぶっ壊しましょう」だった[3]

YOSHIKIは社長としては「立花香流(たちばな かおる)」名義を用いていた[3]

広告に力を入れる姿勢であり、音楽雑誌に月1のペースで掲載されていた。エクスタシー関連の広告のキャッチコピーは全てYOSHIKIが手がけた[3]。メジャーデビュー時のXの総宣伝費が1000万円の時と反して、LUNA SEAのデビューアルバム「LUNA SEA」の雑誌広告費だけでも3000万円かけていた[4]

HIDEは「バンドリサーチ担当」という役職・Sighs of Love PotionのSEXY ROSE HARRY(服部年宏)は代表取締役に就いていた[3]

バンドマンに対する条件は「凶暴性な奴は歓迎」「派手な奴」「ある程度の演奏レベル(エクスタシーの判断による、基準のレベルに達していること)」「最終的に気合が入っている奴。殴られようが蹴飛ばされようが、『オレはやってやる!』という気合を持った姿勢を崩さない奴。見せかけだけの気合ではいけない」という条件を出した上でデモテープ・ビデオテープを募集した。ただし、楽曲に関してはバンドのカラーを尊重して口出ししなかった[3]

エクスタシーのスタッフに対する条件として、「今いるスタッフの中に溶け込める人。全員の和が大切である。和を乱す奴は必要ない」「明るく気持ち良いノリ一発という部分を持っている人」「全ての仕事で最終決定権は社長が握っている」[3]「エクスタシーから出すアーティストは必ず売る、意地でも売る」[4]ことを受け入れる人材を求めた。

あくまでもレコード会社であり、芸能事務所ではないが、それでも連絡先の紹介・物販・ライブの受付・版下作りも全てエクスタシーのスタッフ・バンドマン総出で行い、場合によっては社内に人がいない場合もあった[3]。Xがソニーと契約していた・流通部門が弱かったのもあり、バンドの将来を思って大手レコード会社とのメジャー契約を勧め、相談にも乗った。音楽出版社として「エクスタシー音楽出版社」を経営し、1998年2月の時点で30組のバンドが登録し、楽曲権は150曲弱を管理していた[4]。その上で、1980年代の既存のレコード会社・芸能事務所に所属していたアーティストがヒット曲を出しても、「初期投資の回収」と称して収益の多くを会社側が持って行き、アーティストの生活・実力・芸術家としてのセンスが上向かないことを危惧し、所属アーティストの権利を守り、収益をアーティストに還元することを保障し、YOSHIKI自らも契約・権利関係に詳しくなる様に務めた[5]
歴史

1985年、インディーズで活動していたX(現在のX JAPAN)はレコードのリリースを目指していたが、レコード会社からのオファーがなかったため、自らレコードをリリースすることになった[6]。レコードを発売するための知識が全く無かったリーダーのYOSHIKIは、レコードのプレス工場印刷工場出版社写植工房レコード店などを直接訪ね歩き、レコード制作から販売ルートまでを一から学んでいった[7]。レコードの制作費用や売り上げの管理、税金の申告には会社組織が効率的であるとして、休眠状態となっていたYOSHIKIの実家の呉服会社を業務変更して1986年4月に「エクスタシーレコーズ」が設立された。同時にXの「オルガスム」をリリース。インディーズを扱うレコード店に直接電話で掛け合い、店に置いてもらった。YOSHIKIの友達やXのメンバーに通販の郵送手続きなどは手伝ってもらっていた。また、レコードの宣伝広告に関しても、雑誌社や版下屋を直接訪ね歩いて掲載に漕ぎ着けた[7][4]

しかし運営においてLADIES ROOMGEORGEがスタッフのいい加減な勤務態度に腹を立てて、「こんな会社、なくてもいいんじゃない?」と抗議する事もあり、「Vanishing Vision」がヒットした後ソニーから「一回会社運営の方はやめて、音楽制作に集中してみては?」と言われてXはソニーと契約した。そしてYOSHIKIは改めてエクスタシーレコードのスタッフに対し「運営について俺たちの意見ばかりで申し訳なかった」と謝罪し畳もうとしていた。しかし周囲の友達・後輩から「本当に悪かったと思っているなら、自分たちのレコードを出してくれ!」と抗議されて、結果運営を続行する事になる[8]。「Vanishing Vision」の方法論を駆使してXのローディーをしていたLADIES ROOMや、ZI:KILLLUNA SEATOKYO YANKEESGLAYらが続々とインディーズデビューを飾った。その後メジャーデビューを果たす事となり、ヴィジュアル系バンドのメジャーへの登龍門的存在となった[4]

2000年にレーベルの設立15周年を記念したコンピレーション・アルバムHistory of EXTASY 15th Anniversary』をリリースするが、これ以降はレーベルとしての活動が失速気味となる。2003年初頭以降、オフィシャルサイトの更新が途絶え、サイトは存在するものの、事実上活動を停止した。しかし、「extasyrecords.co.jp」のドメインは毎年「株式会社 エクスタシーレコーズ」名義で更新されている。

2022年、YOSHIKIの実弟である林光樹が代表取締役社長に就任する。TuneCoreパートナーシップを結ぶ[9]
エクスタシー・サミット

エクスタシー・サミットは、LADIES ROOMZI:KILLLUNA SEAなど、エクスタシーレコーズ所属のバンドが一堂に会して行っていたライブイベントである。

コンセプトは「1日限りのお祭り」であり、ただ遊びに来たミュージシャンも気軽に飛び入り参加できて、利益ではなく横のつながり・信頼できる友達関係を大切にした。但し始めた時点から、ミュージシャンの移動とスケジュールの関係で準備が難しかった[3]

1988年に大阪のライブハウス、バーボンハウスで最初に行われた。その後、目黒鹿鳴館を中心に定期的に開催され、1989年9月に渋谷公会堂、1991年10月には日本武道館、翌1992年には大阪城ホールと日本武道館で行われている[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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