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エカテリンブルク
Екатеринбург
Yekaterinburg
市旗市章
位置
位置
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歴史
建設1723年11月18日
行政
国 ロシア
連邦管区ウラル連邦管区
行政区画 スヴェルドロフスク州
市エカテリンブルク
地理
面積
市域490 km2
標高237 m
人口
人口(2020年現在)
市域1,493,749人
人口密度 3,192人/km2
その他
等時帯エカテリンブルク時間 (UTC+5)
郵便番号620XXX
市外局番+7 343
ナンバープレート66, 96
公式ウェブサイト : ⇒http://www.ekburg.ru/
エカテリンブルク(ロシア語: Екатеринбург、ラテン文字表記:Ekaterinburg、またはYekaterinburg)は、ロシア連邦の中央部に位置する大都市。スヴェルドロフスク州の州都。エカチェリンブルクと表記されることもある。1924年から1991年までは革命家のスヴェルドロフを記念してスヴェルドロフスク(Sverdlovsk, Свердловск)と呼ばれていたが、現在は旧名に戻された。なお、州の名称は現在もスヴェルドロフスク州となっている。
ウラル山脈中部の東側(アジア側)斜面に位置し、イセチ川が流れる。40キロメートル西には、ヨーロッパとアジアの境界線が走っている。
人口は約150万人で、ロシア国内ではノヴォシビルスクに次ぐ4番目に人口の多い都市であり、ウラルの首都と言われ発展著しい。ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもある。ウラル連邦管区の本部が置かれ、高等教育機関、博物館、劇場なども多数ある。
歴史エカテリンブルク(1910年)
11世紀頃からノヴゴロド共和国の商人が毛皮交易のためにこの地方を訪れていたが、ウラル地方をコサックが征服した16世紀末頃からこの周辺での鉱工業開発が始まった。1723年、ピョートル1世によってウラル地方のペルミへ派遣された政治家ヴァシーリイ・タチシチェフ(Vasily Tatischev)が豊かな鉱業資源を用いるべく工場町エカテリンブルクを建設した。町の名は、ピョートル1世の妻エカチェリーナ1世に因む。町の建設された日は、公式には1723年11月18日とされている。
エカテリンブルクは、ロシア有数の産業家デミドフ家による投資によって工業都市として急速に成長し、18世紀にはロシア有数の金属工業の中心となった。ロシア最初期の蒸気機関車が製造された街でもある。
ロシア革命に際し、皇帝ニコライ2世は妻子とともにこの地に送られ、1918年7月17日にイパチェフ館(イパティエフ館とも)で一家全員が銃殺された。処刑の舞台となったイパチェフ館は1977年、当時KGB議長だったユーリ・アンドロポフの提案により中央から指令が出され、直ちに、当時スヴェルドロフスク州の共産党委員会第一書記だったボリス・エリツィンの命令で解体された。その跡地はロシア正教会の所有となり、2003年に「全ロシアに輝ける諸聖人の名による、血の上の教会(英語版)」が建てられた。ニコライ2世一家が銃殺されたイパチェフ館跡地に建てられた「血の上の教会」。2003年に成聖された。エカテリンブルクの昇天聖堂(1792-1818)。多くの聖堂が破壊された1930年代に破壊を免れた数少ない建築
1924年、エカテリンブルクはヤーコフ・スヴェルドロフを記念してスヴェルドロフスクと改名された。ヨシフ・スターリン時代の重工業に傾斜した生産計画によりスヴェルドロフスクには大工場が次々に建った。ヨーロッパ最大の重機工場となったウラルマーシュ(Uralmash)もこの時期に創業している。独ソ戦(大祖国戦争)が始まると、モスクワやレニングラードなどドイツ軍の猛攻にさらされたヨーロッパ・ロシアの大都市から、様々な組織がスヴェルドロフスクに避難した。軍需工場や研究所、さらにはエルミタージュ美術館の所蔵品までが疎開していた。戦後の1945年10月には美術品はレニングラードへ戻ったが、工場や研究所の多くはそのままスヴェルドロフスクに残された。戦中から戦後にかけてはドイツ軍捕虜の収容所も建てられ、捕虜たちは強制労働に従事させられた。次いで、シベリア抑留を受けた日本人捕虜が移送され、第435収容地区で強制労働に従事した[1]。
1960年代には工場労働者のための5階建てプレハブアパートが無数に建設され、今日でも市民の多くが住んでいる。
冷戦期におけるスヴェルドロフスク州での事件には、フランシス・ゲーリー・パワーズ大尉の乗るU-2偵察機が撃墜された1960年の「U-2撃墜事件」がある。