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エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ
Екатери?на Миха?йловна Долгору?кова
ユーリエフスキー家
1880年
身位ユーリエフスカヤ公女
敬称殿下
出生1847年11月14日
ロシア帝国 ヴォルィーニ県
死去 (1922-02-15) 1922年2月15日(74歳没)
フランス共和国 ニース
配偶者アレクサンドル2世
子女ゲオルギー
エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ(Екатери?на Миха?йловна Долгору?кова, 1847年11月14日 - 1922年2月15日)は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の愛人で、後に2番目の妻となった貴族女性。
アレクサンドル2世との結婚が貴賤結婚とされたためにロシア皇后にはなれず、ユーリエフスカヤ公女殿下(Светлейшая Княгиня Юрьевская)の称号を与えられた。
生涯
皇帝との出会いエカチェリーナ(1866年)
エカチェリーナ(愛称・カーチャ)は没落貴族ドルゴルーコフ家のミハイル・ミハイロヴィチ・ドルゴルーコフ公爵の娘として生まれた。エカチェリーナが皇帝アレクサンドル2世と初めて出会ったのは、アレクサンドル2世が父の領地を訪れたときである。この時、彼はまだ12歳の少女だったエカチェリーナを心に留めることはなかった。父が何の財産も残さずに死ぬと、エカチェリーナと妹は首都サンクトペテルブルクにある貴族女学校、スモーリヌィ女学院の寄宿生となった。アレクサンドル2世は亡きドルゴルーコフ公爵の4人の遺児たちの教育費を拠出してやっていた。
1864年の秋、アレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問した際、16歳になったエカチェリーナと再会して一目惚れをした[1]。ある同時代人は当時のエカチェリーナについて、「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」と述べている[2]。アレクサンドル2世は学校を訪れてはエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。また、エカチェリーナは学校での生活の中で自由主義的思想を持ち、度々アレクサンドル2世と議論を交わした[1]。その後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩まされる皇后マリア・アレクサンドロヴナ付きの女官に任命した[2]。
エカチェリーナはアレクサンドル2世のことが好きで、彼と一緒にいるのを楽しんではいたが、大勢いるお手付きの女の一人になるのは嫌がった。母ヴェラとスモーリヌィ女学院の学長は、エカチェリーナに家運再興のための機会を逃さず、皇帝の寵姫となるよう彼女をせき立てていた。アレクサンドル2世は1865年に後継ぎの長男ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちしていた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年7月にアレクサンドル2世の愛人になった。母ヴェラはその2カ月前に死去したが、彼女はその日の最後の日記に「皇帝はエカチェリーナに言いました。『あなたは秘密の妻です。私がもし自由になったなら、必ずあなたと結婚するでしょう』」と記している[1][3]。エカチェリーナは1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝との間に4人の子供をもうけた。二人の関係は、皇后マリアが病気を理由に医師からアレクサンドル2世との性行為を控えるように忠告されてから始まったという[4]。
第二の家族アレクサンドル2世、エカチェリーナと二人の子供(ゲオルギー、オリガ)
アレクサンドル2世はエカチェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ないし4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿の皇帝の居室にやってきた[5][6]。