エウリュメドン川の戦い_(紀元前466年)
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エウリュメドン川の戦い
戦争:
ペルシア戦争
年月日:紀元前466年または紀元前469年
場所:エウリュメドン川河口
結果:デロス同盟の勝利
交戦勢力
デロス同盟アケメネス朝
指導者・指揮官
キモンフェレンダテス†
ティトラウステス
戦力
三段櫂船250隻三段櫂船340隻
陸軍(数は不明)
損害
不明200隻破壊(トゥキュディデス)
100隻以上鹵獲(ディオドロス)
ペルシア戦争


イオニア

マラトン

テルモピュライ

アルテミシオン

サラミス

プラタイア

ミュカレ

ビュザンティオン

エイオン

エウリュメドン

キティオン

サラミス

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エウリュメドン川の戦い(英:Battle of Eurymedon)は紀元前466年小アジアのパンヒュリアのエウリュメドン川河口で起こった水陸二つの戦闘である。アテナイ率いるデロス同盟アケメネス朝ペルシアが戦い、戦いは一日で決した。
目次

1 背景

2 戦い

2.1 プルタルコスの記録

2.2 ディオドロスの記録


3 その後

4 註

5 参考文献

6 外部リンク

背景

第二次ペルシア戦争での勝利以降、ギリシア人はペルシアに対して反撃に出た。紀元前478年スパルタによりビュザンティオンビュザンティオン包囲戦)が、紀元前475年にアテナイ率いるデロス同盟によってエイオンが落とされた(エイオン包囲戦[1]。エイオン奪取の後、その指揮官だったアテナイの将軍キモンはより大きな事業を果たそうとし、ペイライエウスに戻って補給を終えると、200隻の艦隊を率いて出港した。その後、同盟諸市からの援軍が加わり、艦隊は300隻に膨れ上がった。そして彼はカリア、そしてリュキアのギリシア諸都市を説得、あるいは武力によって味方に引き入れた[2]後、軍をペルシア軍がいたエウリュメドン川に進めた。

エウリュメドン川のペルシア軍は陸海両軍からなり、フェレンダテスが率いる陸軍はペルシア人だけから成っており、ペルシア王クセルクセス1世の庶子ティトラウステス率いる海軍はフェニキアキュプロス、そしてカリア人から成る340隻であった[3]。また、プルタルコスによれば、全軍の総司令官はアリオマンデスであった[4]
戦い

戦いの経過はプルタルコス(『対比列伝』の「キモン伝」)とディオドロス(『歴史叢書』)が詳しく記録しているが、両者の記録は必ずしも一致していない。
プルタルコスの記録

キュプロスからの援軍80隻と合流するためにペルシア軍はエウリュメドン川近くに投錨していたが、キモンは敵に援軍が来る前に片をつけようとし、戦いを仕掛けた。まずデロス同盟艦隊はペルシア艦隊を攻撃して破り、生き残ったペルシア軍は陸軍のもとに逃げ込んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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