エイリーク2世マグヌソン
Eirik II Magnusson
ノルウェー国王
スタヴァンゲル教会にあるエイリーク2世の頭像
在位1280年 - 1299年
出生1268年
ノルウェー王国
ベルゲン
死去1299年7月15日
ノルウェー王国
ベルゲン
埋葬 ノルウェー王国
ベルゲン旧大聖堂
配偶者マーガレット・オブ・スコットランド
イザベル・ブルース
子女マルグレーテ
インゲビョルグ
家名スヴェレ家
王朝ホールファグレ朝
父親マグヌス6世
母親インゲボー・ア・ダンマーク
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エイリーク2世マグヌソン(Eirik II Magnusson, 1268年 - 1299年7月15日)は、ノルウェーの国王(在位:1280年 - 1299年)。改法王マグヌス6世とデンマーク王エーリク4世の娘インゲボーの間の子。 1273年、5歳のときに父の下で小王の地位を与えられ、1280年に共治王として戴冠することとされた。しかしその前に1280年に父マグヌス6世が死去し、単独のノルウェーとして即位する。成人前であったため、有力貴族と母インゲボーからなる枢密院が組織され王国を統治したが、1282年にエイリークが成年となった後も枢密院は影響力を保持した[1]。弟ホーコンは1273年に「ノルウェー公」とされ、1280年の父の死後は王国東部のオスロ周辺および南西部のスタヴァンゲルをエイリークのもとで支配した。エイリークの王宮はノルウェー西部のベルゲンに置かれた[1]。 1281年、敵対関係にあったスコットランドとの関係改善のため、スコットランド王アレグザンダー3世の王女マーガレットを妃として迎えた。マーガレットは2年後、娘マルグレーテの出産の際に死去した。その後、1293年に後のスコットランド王ロバート1世の妹イザベル
生涯
エイリークはハンザ同盟都市と戦ったが不首尾に終わり、また、デンマーク王エーリク5世の暗殺犯らと同盟を結び、デンマークとの長期にわたる対立を生じさせた[2]。
1299年、32歳で死去した。この時、後妻イザベルとの間の娘インゲビョルグしか残っていなかったが、ノルウェーの相続法では女子の王位継承は認められなかったため、王位は弟ホーコン5世が継ぐこととなった。
先妻との間の唯一の子供であるマルグレーテは、母方の祖父アレグザンダー3世の死後、スコットランド女王マーガレットとして王位を継承したが、引き続きノルウェーで養育された。後にイングランド王太子エドワード(後のエドワード2世)との結婚が決められたが、1290年に父の許を離れてスコットランドへ渡海中に死去した。マルグレーテの死はスコットランド独立戦争の引き金となった。エイリーク2世は一時娘からのスコットランド王位の継承を主張したが、失敗に終わった[1]。 マーガレット・オブ・スコットランドとの間に1女をもうけた。 イザベル・ブルースとの間に1女をもうけた。
子女
マルグレーテ(1283年 - 1290年) - スコットランド女王(1286年 - 1290年)
インゲビョルグ
脚注^ a b c Narve Bjorgo, "Eirik Magnusson" in Norsk biografisk leksikon vol. II, (Oslo, 2000), pp. 436-437
^ “Eirik Magnusson”. Store norske leksikon. 2023年1月21日閲覧。
^ “Isabella Bruce”. Store norske leksikon. 2023年1月21日閲覧。
先代
マグヌス6世ノルウェー王
1280年 - 1299年次代
ホーコン5世
表
話
編
歴
ノルウェー国王
ユングリング家
ハーラル1世872-933
エイリーク1世930-934
ホーコン1世934-961
ハーラル2世961-976
ラーデヤール家
ホーコン・シグルツソン(事実上の君主)976-995
ユングリング家
オーラヴ1世995-1000
スキョル家
スヴェン1世999-1015
ユングリング家
オーラヴ2世1015-1028
スキョル家
クヌーズ1030-1035
スヴェイン・クヌートソン(父と共治)1030-1035
ユングリング家
マグヌス1世1035-1047
シュル家
ハーラル3世1046-1066
マグヌス2世1066-1069
オーラヴ3世1066-1093