エイブラハム平原の戦い
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エイブラハム平原の戦い
七年戦争フレンチ・インディアン戦争

ウルフ将軍の死、ベンジャミン・ウエスト作。

1759年9月13日
場所ケベック郊外
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度48分11秒 西経71度12分54秒 / 北緯46.803度 西経71.215度 / 46.803; -71.215
発端北米植民地をめぐる対立
結果イギリスの勝利
領土の
変化パリ条約によりケベックとルイジアナの一部がイギリス領となる

衝突した勢力
グレートブリテン王国 フランス王国
指揮官
ジェームズ・ウルフ 
ジョージ・タウンゼンド ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム 
戦力
正規兵 4,800正規兵 2,000
植民地兵 600
市民義勇兵及び先住民兵 1,800
被害者数
死亡 60
負傷 600死亡 200
負傷 400
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}エイブラハム平原 ケベック州内の位置

エイブラハム平原の戦い、またはケベックの戦い(: Battle of the Plains of Abraham、Battle of Quebec、: Bataille des Plaines d'Abraham、Premiere bataille de Quebec)は、七年戦争北アメリカではフレンチ・インディアン戦争)の中枢となる戦いである。
概要

1759年9月13日に、ケベックの要塞の外にある台地で、イギリス陸海軍とフランス陸軍の間で行われた戦闘のことで、元々エイブラハム・マーティンという農民がこの地を所有していたことが、この戦いの名前の由来となった。

この戦いは、両軍合わせて少なくとも1万の部隊が投入され、後のカナダの形成に影響を与え、ヌーベルフランスの運命を決定づけるという点で、北アメリカでの英仏両国の戦いの中で最大の山場となった[1]

3か月に及ぶイギリスの包囲作戦で、頂点というべきこの戦いは15分ほどで幕を閉じた。ジェームズ・ウルフ将軍に率いられたイギリス部隊は、ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム指揮下のフランス部隊、そしてカナダ(ヌーベルフランス)の民兵に効率よく立ち向かった。その戦術は、ヨーロッパの大きな戦争ではかなり功を奏していた。

この戦いで双方の将軍は致命傷を負い、ウルフは開戦からわずか数分後に受けた弾丸が元で世を去った。そしてモンカルムもまた、下腹部に弾丸を受け、翌朝、死亡した。既に開戦の時点でフランス軍やカナダ民兵は、至近距離からのイギリス軍の容赦ない集中射撃により、かなりの圧力を受けていた[2]

フランス軍はケベック陥落後も戦いを続け、いくつかの戦いでは優勢に立っていたが、イギリス軍は要塞の占領にこだわり続け、それが北アメリカの他の植民地にも及び、北アメリカ東部のフランスの植民地はその後4年間でイギリスに割譲されてしまった。
ボーポールの戦いジェームズ・ウルフルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムレビ伯フランソワ・ガストン(ケベック州議事堂の像)

七年戦争は、期間の後半の1758年から1759年にかけて、北アメリカ北東部のフランス軍とフランス植民地が、イギリスの新戦力の前に屈していった。1758年のカリヨンの戦いでの敗退ののち、イギリスは8月にルイブールの包囲に出て、カナダ大西洋岸をイギリスの手に納め、ケベックへの攻撃の拠点となる海路を開いた。同じ8月にフォート・フロンテナックがイギリスの手に落ち、オハイオ渓谷へ行軍中のフランス補給部隊が犠牲になった。フランスは、部隊を引かざるを得なかった。イギリスの勝利により、フランスの指揮官、とりわけ総督ヴォードルイユと、将軍モンカルムは不安を覚えたが、ケベックはまだ防御が可能だった。後に実践されることになるイギリスの三叉戦法は、この時点では未完成だったからだ[3]

イギリス側のジェームズ・ウルフは、1万2千の兵を率いることになっていた。しかし彼を出迎えたのは約400名の士官、7,000人の普通部隊、300人の砲兵そして海兵隊であり[4]、チャールズ・ソーンダース提督率いる49艘の船と140艘の小型船舶の艦隊の支援を受けていた。艦隊がケベックに近づく前の準備として、ジェームズ・クックセントローレンス川の測量に入った。この川には、トラバースクックの船をはじめとした第一団の船団が川に入り、河床の深さを測りつつ、上って来た艦隊を導いて、ウルフと兵士たちは6月28日にオルレアン島 (en) に上陸した[5]。フランス軍は、7艘の爆薬を仕掛けた船を送りこんで上陸を妨げようとしたが、船の爆発があまりに早すぎ、イギリスの水兵たちは炎上するフランスの船を艦隊から引き離すことができた[6]。翌日、ウルフの部隊はケベックから川をまっすぐ渡っただけの場所である、セントローレンス川の南岸のレヴィに上陸した。7月の始めにはそこに砲台が築かれた。その砲台からは、ケベックのローワータウンが射程に入った[7]

指揮官のあいだでは敗北主義的な空気が漂っていたが[8]、正規のフランス部隊、そしてカナダ民兵はイギリスによるボーポールへの攻撃に対しての準備に照準を合わせていた。モンカルムと部下の少将フランソワ=ガストン・ド・レビ 、大佐のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル、そして中佐のセネツェルギュは[9]、1万2千人の部隊をセントローレンス川からモンモランシーの滝まで、セントローレンス川の瀬に沿った9キロの長さにわたる要塞と砲台に配した。かつて、上陸を目論むイギリス軍の標的となった場所だった[10]。イギリスの攻撃に先立ち、多すぎるほどの支援軍を乗せた艦隊がケベックに到着した[8]。長期にわたる包囲への援軍だった[11]7月31日のイギリスの攻撃ヌーベルフランスのヴォードルイユ総督

ウルフがボーポールの町を見下ろしたところ、町にはバリケードが築かれ、銃撃戦に耐えられるようにしているのに気がついた。バリケードは道に沿って途切れることなく築かれていて、手ごわい要塞となっていた。加えて、モンモランシー川に木々が覆い茂り、この道から近づくのは危険だった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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