エイブラハム・リンカーン
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「エイブラハム・リンカーン」のその他の用法については「エイブラハム・リンカーン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

エイブラハム・リンカーン
Abraham Lincoln

エイブラハム・リンカーン(1863年撮影)
アメリカ合衆国
第16代 大統領
任期1861年3月4日1865年4月15日
副大統領ハンニバル・ハムリン
アンドリュー・ジョンソン
アメリカ合衆国
下院議員イリノイ州第7選挙区選出)
任期1847年3月4日 – 1849年3月4日

出生 (1809-02-12) 1809年2月12日
アメリカ合衆国ケンタッキー州ハーディン郡
死去 (1865-04-15) 1865年4月15日(56歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
政党ホイッグ党 (1832年 - 1854年)
共和党 (1854年 - 1865年)
国民統一党(英語版) (1864年 - 1865年)
配偶者メアリー・トッド・リンカーン(1818年 - 1882年)
子女ロバート・トッド・リンカーン(1843年 - 1926年)
エディ・リンカーン(1846年 - 1850年)
ウィリー・リンカーン(1850年 - 1862年)
タッド・リンカーン(1853年 - 1871年)
署名

エイブラハム・リンカーン(: Abraham Lincoln [?e?br?ham ?l??k?n] ( 音声ファイル)、1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士イリノイ州議員、下院議員を経て、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。

名はアブラハム[1]、姓はリンカン[2]とも表記される。漢字では阿伯拉罕・倫古竜[3]と表記される。愛称は、エイブ (Abe)。また、オネスト・エイブ (Honest Abe)、レール・スプリッター (the Rail Splitter)、「偉大な解放者」(the Great Emancipator)、「奴隷解放の父」とも呼ばれる[4]。しばしば「史上最高の大統領」とも評される。
人物像[ソースを編集]

エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国最初の共和党所属の大統領である。そして、アメリカ合衆国大統領を務めた個々の人物の業績をランクづけするために実施された政治学における調査結果「歴代アメリカ合衆国大統領のランキング」において、しばしば、「もっとも偉大な大統領」の1人に挙げられている。

また、1863年11月9日、ゲティスバーグ国立戦没者墓地の開会式において行われた世界的に有名な演説である「ゲティスバーグ演説」において、戦没者を追悼して「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」という民主主義の基礎を主張したことや、アメリカ合衆国南部における奴隷解放、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた政治的業績、リーダーシップなどが、歴史的に高く評価されている[要出典]。

奴隷制の拡張に反対するリンカーンの大統領当選は南部諸州の反発を招き、アメリカ合衆国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦をよく指揮して、勝利へ導いた[要出典]。しかし、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にあるフォード劇場において、観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れた。これにより、リンカーンはアメリカ史上で初めて暗殺された大統領となった。

一方で、インディアンに対しては当時の米国政府の路線を引き継ぎ、ロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争などのインディアン戦争は、リンカーン政権下の南北戦争中にあっても並行して続行されていたが、現場や該当地域州民から反発を招いても和平家から要請を受け入れ、法にのっとった恩赦の実施や配慮を申し渡していた[5][6]
日本語での表記について[ソースを編集]

リンカーンに日本人として初めて謁見したジョセフ彦[7]こと浜田彦蔵が1864年に発行した「海外新聞」記事の記載例を見ると、「リンコルン」が6例、「レンコロン」が4例、「リンコリン」「レンコレン」が1例ずつと、本間清雄や岸田吟香ら記者によって表記が分かれている[8]

1907年には、翻訳家の山縣悌三郎が次のように言及している。

 ジョセフ・H・チョート『リンコンの人物及び其の事業』。ウィキソースより閲覧。"從來リンコンの名はアブラハム・リンコルン,若くはリンコーンと發音せられたるが、皆誤れり。正しきはエーブラハム・リンコン也。"。 

明治末から1970年までの新聞切抜資料集である神戸大学の新聞記事文庫にも複数の訳があり、それぞれの初出は「リンコルン」が1912年、「リンカーン」が1913年、「リンカン」が1917年、「リンコン」が1927年(ただしリンコンは自動車の記事のみで人名には用いられていない)。件数も「リンカーン」126件、「リンコルン」89件、「リンカン」20件と、長音で「リンカーン」とする表記とローマ字読みの「リンコルン」が多数を占めている。

立身伝は明治・大正期の日本で評判となり出版物が相次いで刊行された。それらの表記は、1909年の『内外教訓物語 人之巻』では「リンコルン」、ほかにも櫻井鴎村の1918年の著作『リンコルン物語』があり、内ヶ崎作三郎の1919年の著作も『リンコルン』である。また、複数の作者により唱歌も作られており、国立音楽大学附属図書館索引で確認できる3曲のタイトルは全て『リンコルン』である。

1926年の高級車リンカーンの広告においては、「リンコン」の表記が確認できる[9]。ほかにも島崎藤村の晩年の作品に『アブラハム、リンコンの母』がある[10]

このように、明治から戦後にかけて日本語でのカナ表記はまったく統一されておらず、のちに「リンカーン」でほぼ統一された経緯も不明である。

1991年に国語審議会が発表した「外来語の表記」において、「Lincoln」を「リンカーン」と表記することが定められた[11]。※ただし、「語例は、それぞれの仮名の用法の一例として示すものであって、その語をいつもそう書かなければならないことを意味するものではない」と留意事項が記されている。

2023年現在、高等学校の世界史教科書では英語発音に近い「リンカン」で統一され、中学校の歴史教科書でも「リンカン」を採用する出版社が増えている[12]
生涯[ソースを編集]
生い立ち[ソースを編集]詳細は「エイブラハム・リンカーンの前半生」を参照


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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