エイブラハム・リンカーンの前半生
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青年時代のリーンカーン像、シカゴ市センパーク

本稿では、エイブラハム・リンカーンの前半生について、その生を受けてから40歳くらいまでを詳述する。リンカーンは、1809年2月12日に、ケンタッキー州ラルー郡の現在はホジェンビルと呼ばれる町の1室しかない丸太小屋で生まれた。エイブラハムという名前は開墾をしていた1786年にインディアンに襲われ、撃たれて死んだ祖父の名前を貰ったものだった。

リンカーンは少年時代、ケンタッキー州に住んでおり、後に父親が土地に関する紛争でインディアナ州に移転することになった。フロンティアでは常のこととして、リンカーンは正式の教育をほとんど受けなかった。青年時代には家族に付いてイリノイ州に移転し、船乗り、店員、測量士、民兵などを務め、最後には弁護士になった。イリノイ州議会議員に選ばれ、その後アメリカ合衆国下院議員も務めた。1842年、メアリー・トッドと結婚し、4人の息子をもうけた。
少年時代(1809年-1831年)
家族

1858年、リンカーンは次のように記していた。分かっている先祖は1638年にイングランドノリッジからマサチューセッツ州ヒンガム(あるいはハンギム)に移民してきたサミュエル・リンカーン(1622年 ? 1690年)からである。リンカーンの祖父エイブラハム・リンカーンはペンシルベニア州で生まれ、1766年頃にその父と共にバージニア州シェナンドー・バレーに移転した。オーガスタ郡(現在のロッキンガム郡)のリンビル・クリーク近くに入植し、1773年には父から土地を購入した。祖父は家族を連れて西のケンタッキー州に移転し、1786年、42歳の時に畑を切り開いている最中にインディアンに襲われ殺された。その息子でリンカーンの父となるトーマスはその様子を目撃しており、兄弟のモーディカイがインディアンを撃たなかったら、トーマス自身も犠牲者になるところだった[1]

リンカーンの母方の祖父についてはほとんど分かっていない。リンカーン自身が「バージニア州の農園主あるいは大規模な農家」であり、その利点を生かして若い女性ルーシー・ハンクスと結婚したと書いていた。この出会いによりリンカーンの母であるナンシー・ハンクスが生まれた。リンカーンは「その分析力、論理構成、精神活動、大望およびハンクス家の面々や子孫などとは異なるあらゆる特性」を継承したのはこの貴族的な祖父からだと感じていた[2]

リンカーンが有名になると、記者や作家はその出生時の貧窮や曖昧さを誇大に書き立てることが多かった。しかし、リンカーンの父トーマスはケンタッキー州の田舎で尊敬され比較的裕福な市民だった。1808年12月にはシンキングスプリング農園を200ドルの現金と幾らかの借金で購入していた。

歴史家のウィリアム・E・バートンに拠れば、リンカーンの生物学上の父はエイブラハム・エンローであるという「南部の幾つかの地域で様々に流された」噂があるということである。この噂はエンローが死んだ1861年に始まっていた。バートンはこの噂が「初めから終わりまで嘘」であると片付けている[3][4][5][6]。エンローは表向きリンカーンとの結びつきを否定したが、私的にはそれを認めたと報じられている[7]

リンカーンの両親は、奴隷制を拒んだが故に大きな教会組織から離れたバプテスト教会の信者だった。リンカーンは幼い頃から反奴隷制という考え方に馴染んでいた。しかし、両親の教会や他の教会の信者となることはなく、若者として信仰をばかにしていた。

父のトーマスが土地を購入してから3年後、父よりも前にハーディン郡巡回裁判所に登記されていた権利証が顕れてリンカーン家は移転を余儀なくされた。トーマスは1815年に敗訴するまで訴訟を続けた。法定費用のために一家の家計は困難な状況になった。1811年、数マイル離れたノブ・クリーク沿いで230エーカー (0.9 km2) の農場から30エーカー (0.1 km2) の土地を借りることができ、そこに転居した。その土地はローリングフォーク川の流域にあり、その地域でも最良の農地に入っていた。当時リンカーンの父は地域社会で尊敬される成功した農夫であり大工だった。リンカーンの最も初期の記憶はこの農場時代から始まっている。1815年、土地に関する別の権利主張者が現れ、一家はノブ・クリークの農園からも追い出されることになった。トーマスはケンタッキー州の裁判所による訴訟沙汰や安全性の無いことに不満を募らされ、インディアナ州に移転する決断を下した。インディアナ州は連邦政府が測量を行っており、土地の権利はしっかりしたものになっていた。リンカーンが測量術を覚え、その後に弁護士になったのもこれらの事情が動機になった可能性がある。

1816年、リンカーンが7歳のとき、両親とエイブラハムおよび姉のサラはインディアナ州スペンサー郡に移転した。リンカーンの言に拠れば、「奴隷制という理由もあったが、ケンタッキー州では土地の権利確保が難しいというのが大きな理由だった」となっている[8]。1818年、リンカーンの母がミルク病で死んだ。母は34歳、リンカーンは9歳だった。その後間もなくリンカーンの父はサラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。サラはリンカーンを自分の子供であるかのように育てた。後年、サラはリンカーンを自分の息子と比較して、「どちらもいい子だが、どちらも死んだ今となって、エイブ(リンカーン)は私が見た、あるいは見ることを期待できた中で最良の少年だった」と語っていた。

リンカーンの姉サラは1828年1月20日、21歳の時に死産がもとで死んだ。

1828年春、リンカーンは平底船ニューオーリンズまで旅した。地元の店を所有するジェイムズ・ジェントリーのために商品を売ることを目的としてロックポートを出発した。
教育暖炉の灯りで本を読む少年リンカーン

リンカーンが学校に入る前、従兄弟のデニス・ハンクスが「綴り方、読み書きの最初の授業」を行ったとされている。「私はエイブに、私がライフルで撃ち落としたノスリの羽根で作ったペンを持たせ、エイブの指を私の手で動かすことで如何に書くかという概念を教えた。


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