エイドリアン・スーティル
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エイドリアン・スーティル
Adrian Sutil
スーティル (2011年)
基本情報
略称表記SUT
国籍 ドイツ
出身地バイエルン州シュタルンベルク
生年月日 (1983-01-11) 1983年1月11日(41歳)
F1での経歴
活動時期2007-2011,2013-2014
過去の所属チーム'07 スパイカー
'08-'11,'13 フォース・インディア
'14ザウバー
車番99
出走回数128
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント124
ポールポジション0
ファステストラップ1
初戦2007年オーストラリアGP
(記録は2014年最終戦アブダビGP終了時)
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エイドリアン・スーティル(Adrian Sutil、1983年1月11日 - )は、ドイツ出身のレーシングドライバー。血液型AB型、身長183cm。

2002年、スイス フォーミュラ・フォードより参戦。以降F3シリーズで実績を上げ、2006年には全日本F3選手権にて年間タイトルを獲得。翌2007年F1に昇格し、「スパイカー」「フォース・インディア」「ザウバー」で活躍した。
経歴
出生からF1参戦まで

父はバイオリニスト、母はピアニストという音楽一家に生まれる。自身も幼少期よりピアニストになる為の英才教育を受けていたが、14歳の時にゴーカートと出会い、そのエンジン音の虜に。ピアニストからレーサーへの道へ進むことを決める。

2000年にドイツカート選手権に参戦し総合3位など各種カート大会で経験を積んだ。

2002年にはスイスのフォーミュラ・フォードに参戦し、全12の選手権において全てのレースでポールトゥウィンを達成してチャンピオンに輝いた。2003年はドイツのフォーミュラBMWに参戦し、2回のポールポジションと4回の表彰台を獲得するも優勝には届かず、総合6位でシーズンを終えた。

2004年にはコリン・コレスのチームからユーロF3に参戦。2度のポールポジション獲得などの活躍を見せるが優勝には至らず、総合15位で初年度を終えた。最終戦ではASMに移籍し、翌2005年も同チームから参戦、チームメイトにはルイス・ハミルトンを迎えた。2勝をあげたものの15勝をあげたハミルトンに敗れ、総合2位で同シリーズを終えた。同年2005年冬には、初開催となる2005-2006A1グランプリにドイツチームとして、ポルトガル、オーストラリア、ドバイのレースにも出場している。最高位は12位が2回、チームは総合15位に終わった。

2006年、日本トムスからのオファーを受け、全日本F3選手権にフル参戦する契約を結ぶ。雨の富士では接触でリアウイングを失うも、4位で完走するなど驚異的な走りを見せ、18戦中5勝をあげてシリーズチャンピオンに輝いた。また、8月に行われたSUPER GT鈴鹿1000kmレースに、同じくトムスの36号車のサードドライバーとして、脇阪寿一アンドレ・ロッテラーと共に出走した。また同年には、F1に新規参戦したミッドランドF1(MF1)チームのサードドライバーとして契約しており、F1の3レースで金曜日フリー走行に出走した(第5戦ヨーロッパGP第11戦フランスGP第17戦日本GP)。
F1参戦後

2007年、MF1を買収したスパイカーから、ティアゴ・モンテイロに代わりレギュラードライバーとしてF1参戦することになった。チームメイトはクリスチャン・アルバース第11戦ハンガリーGPからはアルバースに代わって山本左近)。マシンの競争力不足から、チームメイトと共にシーズンを通して予選では常に最後方を争うことになる。決勝ではミスも目立ち、7回のリタイアの内5回は、単独でのスピンや他車とのアクシデントによるものとなった。そんな中、第17戦日本GPでは9位でレースを終え、後に8位のヴィタントニオ・リウッツィのペナルティにより8位に繰り上がり、F1での初入賞を果たすとともにスパイカーにチーム初ポイントをもたらした。

2008年はスパイカーを買収したフォース・インディアと契約。チームメイトはベテランのジャンカルロ・フィジケラ。チーム名こそ衣替えしたものの、昨年同様マシンの競争力不足は変わらず、全18戦中11回のリタイアを喫する。第6戦モナコGPでは雨の中、非力なマシンで終盤まで4位を走行したが、後方からキミ・ライコネンに追突されリタイアに追い込まれた。しかしレース後に「黄旗が振られている区間で3台をオーバーテイクした」として警告を受けたため、完走していたとしてもペナルティのため入賞ではなかったことが濃厚[1]

2009年も引き続きフォース・インディアから参戦。マシンの競争力は不足しており苦戦を強いられているが、雨中のレースとなった第3戦中国GPでは終盤に6位まで浮上しまたしても雨での強さを見せた。しかし、残り6周でクラッシュし入賞を逃した(17位完走扱い)。イギリスGPでは予選で赤旗中断となる激しいクラッシュに見舞われたが、決勝には無事出走している。ドイツGPではQ1.Q2を余裕を持って勝ち上がり、Q3で自己最高の7番グリッドにつけた。予選を8.9番手で終えたフェラーリの2台より多く燃料を積んでの予選であり、決勝では1回目のピットストップまでのロングランで2位まで順位を上げ、トップを走るルーベンス・バリチェロの直後に着き優勝の期待もされたが、ピットアウト後の1コーナーでキミ・ライコネンと接触。15位までポジションを落とし大きなチャンスを逃した。イタリアGP予選では自己最高位更新となる予選2位の速さを見せ、フロントロウを獲得。更に決勝ではマシンの特性を活かして初ファステストラップを記録し、自己最高位の4位でゴール。レースや予選で速さを見せた一方で、シンガポールGPではスピンした直後のリカバーでニック・ハイドフェルドに衝突し、次戦の日本GPではシケインに並走状態で進入したヘイキ・コバライネンのラインを強引にふさぎ接触など、他車を巻き込む荒いドライビングも散見されるシーズンとなった。

2010年も引き続きフォース・インディアから参戦。同年のフォースインディアのマシン「VJM03」は開幕戦から高い戦闘力を発揮し、コンスタントにポイントを獲得する過去最良のシーズンとなるも、シーズン途中にテクニカル・ディレクターが離脱したことからチームのパフォーマンスは徐々に低下、シーズン終盤は予選でのQ3進出もままならなくなった。結果、コンストラクターズランキングでウィリアムズチームに6位を奪われた。

2011年も引き続きフォース・インディアから参戦。チームメイトはルーキーのポール・ディ・レスタ。最終的にディ・レスタに15ポイント差をつける42ポイントを奪い、キャリアハイとなるドライバーズランキング9位獲得、全19戦中リタイアは2度のみと悪くないシーズンを送るが、4月に発生していた傷害事件と裁判沙汰もあり(後述)、シーズン終了後にニコ・ヒュルケンベルグと入れ替わる形でF1シートを失う。2012年はシートを得られず1年間浪人となった。

2013年はヒュルケンベルグがザウバーへ移籍したため空いた古巣・フォースインディアのシートを、ジュール・ビアンキと競った末に獲得し[2]、F1復帰を果たす。


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