エイトル・ヴィラ=ロボス
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エイトル・ヴィラ=ロボス
Heitor Villa-Lobos
1922年頃
基本情報
生誕 (1887-03-05) 1887年3月5日
ブラジル帝国 リオ・デ・ジャネイロ
死没 (1959-11-17) 1959年11月17日(72歳没)
ブラジル リオ・デ・ジャネイロ
職業作曲家
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エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos 1887年3月5日 - 1959年11月17日)はブラジル出身の作曲家。独学で作曲を勉強し、クラシックの技法にブラジル独自の音楽を取り込んだ作風で知られる。ヴィラ=ロボスは、南米のみならず、20世紀を代表する作曲家の一人である。また、多作家としても知られ、作品数は1000を超える。

1986年から発行されていたブラジルの旧500クルザード紙幣に肖像が使用されていた[1]。また、切手にも肖像が使用されていた。
生涯

エイトル・ヴィラ=ロボスは1887年、リオ・デ・ジャネイロに生まれた。エイトルの父ハウル・ヴィラ=ロボスはスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でもあった[2]。母ノエミアは父に作曲家のアントニオ・サントス・モンテイロを持ち、ハウルとの間には8人との子どもを得た[2]

ヴィラ・ロボス家は二階建ての家に住んでおり、一階にはエイトルの叔父ジョゼ・ジョルジ・ハンジェウと叔母レオポルディナ・ド・アマラウが商店を営んでおり、二階にはハウルとノエミア、エイトルが暮らしていた[3]。叔父たちが営む商店では音楽家を招いたパーティが行われており、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられた[2]

しかし1892年、ハウルが職場のトラブルや、当時の副大統領への政権批判記事を新聞に掲載したことによる政治的危険性から、一家はリオ・デ・ジャネイロを離れ、ブラジル各地を転々とする生活を送ることになる[4]。1893年、最終的にリオ・デ・ジャネイロへと戻り、再び音楽家たちを集めたパーティが再開される[5]。ハウルはこの時、就寝時間の言いつけを破って度々、音楽家たちのパーティを見に来たエイトルを見て、音楽への手解きをしようと確信したという[6]。また叔母はJ.S.バッハ平均律クラヴィーア曲集を好んで弾いたと伝えられており、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えた[7]

こうしてエイトルはハウルからピアノクラリネットチェロを演奏することを学び、また演奏会などにもハウルに引き連れられ見学に行った[8]。その後、独学でギターサキソフォンを学び、作曲も1899年頃には記録に残る最初の作品が音楽家たちのパーティの中で発表された[9]

1899年に当時ブラジルで流行していた天然痘によってハウルが没する[10]。どうにか医学部のある大学へと進学させたい母ノエミアの反対を押し切って、エイトルは16歳の時に家を出て叔母の家に移り住む[11]。その後、ギターのレッスンなどで収入を得つつ、演奏家としての活動を始める[11]

1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員などをし、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けた[12]。1913年にはピアニストのルシリアと結婚した[13]。1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品などを作曲し、また自作品だけの演奏会も度々企画して興行を行った[14]。1922年には「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」などで主に室内楽を中心に作品が演奏され、イベントの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めていく[15]。こうした活動がダリウス・ミヨーアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学した[16]。この頃に書かれた作品として、ヴァンサン・ダンディの手法による3つの交響曲 (交響曲第1番から第3番)、3つの戦争交響曲 (交響曲第4番から第6番)、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲第1番などがある。

1923年にはルービンシュタインによって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得た[17]。またルービンシュタインの紹介もあり、音楽出版社であるマックス・エシック社との契約が結ばれ、声とヴァイオリンのための組曲などが出版された[18]。その後、資金が底を付き、ヴィラ=ロボスは一旦、ブラジルに帰国することになる[19]。ヴィラ=ロボスの代表作ショーロスの多くはこの時期に作曲された[20]

その後、カルロス・ギンレの資金援助を受け、再びパリを拠点に活動を再開した[21]。この時期にはショーロスを始め、多くの作品がパリで上演され、パリでもヴィラ=ロボスの名が知られるようになった。またエドガー・ヴァレーズレオポルド・ストコフスキーセルゲイ・クーセヴィツキーアンドレス・セゴビアなどの著名な音楽家たちと交友関係を築いたのもこの時期である[22]

しかし、ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスによる1930年革命(ポルトガル語版)により、金銭難に陥ったため留守にしていたパリのアパートから立ち退きを余儀なくされる[23]。この時に、2つのショーロ(第13番と第14番)を含む多くの作品の自筆楽譜と筆写譜が失われたと考えられている。

ブラジルに帰国後、サンパウロ州を統治していたジョアオ・アウベルト・リンス・ジ・バホス(ポルトガル語版)よりブラジル内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう要請される[24]


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