ウ・タント
??????
ウ・タント(1963年7月)
第3代国際連合事務総長
任期
1961年11月30日 ? 1971年12月31日
前任者ダグ・ハマーショルド
後任者クルト・ヴァルトハイム
個人情報
生誕 (1909-01-22) 1909年1月22日
イギリス領インド帝国 ビルマ パンタナウ(英語版)
死没1974年11月25日(1974-11-25)(65歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死因肺癌
墓地 ミャンマー ヤンゴン カンドーミン庭園霊廟(英語版)
国籍ビルマ
配偶者Daw Thein Tin(1989年死別)
親戚.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
Khant (弟)
Thaung (弟)
Tin Maung (弟))
Thant Myint-U(英語版) (孫)
子供
Maung Bo
Tin Maung Thant
Aye Aye Thant
親
Po Hnit
Nan Thaung
出身校ラングーン大学(英語版)
宗教上座部仏教
署名
この記事には特殊文字があります。適切な表示支援がない場合クエッションマーク、ボックスなどの記号に差し替えられる場合があります。
ウ・タント[注釈 1](ミャンマー語: ??????, ラテン文字転写: U Thant、ALA-LC翻字法: ?" San?' ビルマ語発音: [?u θa???] 1909年1月22日 - 1974年11月25日)は、ビルマの外交官、教育者である。
第3代国際連合事務総長を務めた。初のスカンディナヴィア人以外の国連事務総長である。在任期間は1961年11月30日から1971年末までで、歴代事務総長の中では最長の10年1か月(3683日)である[1]。
若年期と教育大学在学中のウ・タント(1927年)
イギリス領インド帝国ビルマ(現在のミャンマー) のパンタナウ(英語版)で生まれた[2]。4人兄弟の長男だった。一家は地主と米商人をしており、比較的裕福な家庭だった。一家はビルマ族で敬虔な仏教徒だったが、タントの孫のタント・ミン=ウー(英語版)によれば、遠い祖先には中国系、インド系、イスラム教徒もいるという[3]。
父のポー・フニット(Po Hnit)は、カルカッタで教育を受け、この町で唯一英語が話せる人物だった[4]。ビルマ研究協会(英語版)の創設メンバーであり、ラングーンの新聞『ザ・サン(英語版)』の創刊にも協力していた[4][5]。ポー・フニットは、4人の息子たちがいずれも大学を出ることを望んでいた[6]。他の息子たち、カント(Khant)、タウン(Thaung)、ティン・マウン(Tin Maung)もまた、政治家や学者として活躍した[5]。
ポー・フニットは、アメリカやイギリスの様々な本を収集し、子供たちに読書の習慣を身に付けさせていた。その結果、タントは熱心な読書家となり、学校の友人からは「哲学者」というあだ名で呼ばれていた[7]。読書以外にも、ハイキング、水泳、チンロンなど様々なスポーツしていた[8]。タントはパンタナウの国立高校に通っていた。11歳のとき、タントは1920年大学法に反対するストライキに参加した。子供の頃のタントはジャーナリストになることを夢見ており、ビルマ・スカウト協会(英語版)の雑誌に記事を書いて家族を驚かせた。14歳の時に父が亡くなり、相続争いに巻き込まれて、母のナン・タウンと4人の子供たちは経済的に苦境に立たされた[9]。
父の死後、タントは4年制大学には通えないと考え、1926年にラングーン大学(英語版)の2年間の教員課程に入学した。タントは長男であるため、一家を支える必要があった。大学では、後に同国首相となるウー・ヌと親友になり、ヌーと共にD・G・E・ホール(英語版)に師事して歴史学を学んだ[10]。タントは、大学哲学協会の共同書記に選ばれ、文芸討論会の書記にも選ばれた[11]。また、『ワールド・オブ・ブック』誌にたびたび寄稿し、同誌の発行者でビルマ・ブック・クラブの創始者のジョン・シデナム・ファーニヴァル(英語版)と知り合った。ファーニヴァルは、自分のコネで良いポストを約束するとして、4年制課程を卒業して公務員になることを勧めたが、タントはそれを断った[12]。 1928年、2年制課程を修了してパンタナウに戻り、上級教師として国民高校で教鞭を執った。タントは定期的にファーニヴァルやヌーと連絡を取り、記事を書いたり、『ワールド・オブ・ブックス』の翻訳コンテストに参加したりしていた[13]。1931年、タントはビルマ教員試験に最優秀の成績で合格し、25歳の若さで校長に就任した[14][15]。タントは「ティラワ」(Thilawa)というペンネームで新聞や雑誌に定期的に寄稿し、国際連盟に関する本などの多くの本を翻訳した[16]。 タントが主に影響を受けたのは、スタッフォード・クリップス、孫文、マハトマ・ガンジーである[7]。ビルマの政治情勢が緊迫していた時代において、タントは熱烈な民族主義者とイギリスへの忠誠主義者の間で穏健な立場を取った[15]。 第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて、日本軍がビルマを占領した。日本軍は、教育再編委員会を指導させるためにタントをラングーンに赴任させたが、実質的な権限を持っていなかったため、タントはパンタナウに戻った。日本軍がパンタナウの高校に対して日本語を必修化するように命令したとき、タントはこれに反抗し、反日抵抗の高まりに協力した[17]。 1948年、ビルマがイギリスから独立した。初代ビルマ首相に就任したヌーは、タントを放送大臣に任命した。当時、国内では内戦が勃発していた。カレン族の反乱が始まると、タントは命がけでカレン族の兵営へ行き、和平交渉を行った。交渉は決裂し、1949年、進撃してきた反乱軍はタントの故郷を焼き払った。反乱軍は、首都ラングーンから4マイル以内にまで戦線を進めたが、政府軍に撃退された。翌1949年、タントは政府の情報大臣秘書官に任命された。1951年から1957年までは首相であるヌーの秘書を務め、演説原稿の執筆、外遊の手配、外国から訪問した要人との面会などを行った。タントはヌーの最も親しい側近であり、助言者であった[17]。 また、多くの国際会議に参加した。1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議の幹事を務め、非同盟運動を成立させた。
教員
ビルマ政府公職朝の散歩中のタントとヌー(1955年)