ウル
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この項目では、古代メソポタミア都市国家について説明しています。その他の用法については「ウル (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウル(Ur)??? or ??? Urim(シュメール語
??? Uru(アッカド語
??? ??r'(アラビア語
ウルの遺跡。背景にウルのジッグラトが見える
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ウル近東における位置近東の地図を表示ウルウル (イラク)イラクの地図を表示
所在地イラクジーカール県テル・エル=ムッケイヤル(el-Muqayyar)
地域メソポタミア
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度57分47秒 東経46度6分11秒 / 北緯30.96306度 東経46.10306度 / 30.96306; 46.10306座標: 北緯30度57分47秒 東経46度6分11秒 / 北緯30.96306度 東経46.10306度 / 30.96306; 46.10306
種類Settlement
歴史
完成前3800年頃
放棄前500年以降
時代ウバイド期から鉄器時代
文化シュメール
追加情報
発掘期間1853年-1854年、1922年-1934年
関係考古学者ジョン・ジョージ・テイラー(英語版)、チャールズ・レオナルド・ウォーリー

ユネスコ世界遺産
登録名Ur Archaeological City
所属南イラクのアワール
登録区分Mixed: (iii)(v)(ix)(x)
参照 ⇒1481-006
登録2016年(第40回委員会)
面積71 ha (0.27 sq mi)
緩衝地帯317 ha (1.22 sq mi)

ウル(Ur)は古代メソポタミア南部にあった古代都市。ウバイド期(紀元前6500年?紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。

現在のイラク南部、ジーカール県のテル・エル=ムッケイヤル(Tell el-Muqayyar、アラビア語: ?? ??????‎)が古代のウルである[1]。ウルはシュメールの重要な都市国家であった。ウルはかつてユーフラテス川ペルシア湾に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代のイラクの都市ナーシリーヤから16キロメートルの位置にある[2]

ウルは前3800年頃のウバイド期に創建され、前2600年頃に都市国家として文字史料に記録されている。初めて文字史料に登場する王はメスアンネパダである。

ウルの守護神はシュメールアッカドアッシリアバビロニア)の月神ナンナアッカド語シン)であり、都市の名前はこの神に由来している。UNUGKIという名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する[2]

この遺跡には部分的に修復されたウルのジッグラトの遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀(低年代説(英語版))のウル・ナンム王の治世中に建設され、前6世紀にバビロンの王ナボニドゥスによって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている[3]
表記

英語ではUr[??r]シュメール語ではUrim[4]、シュメール語楔形文字(英語版)では???URIM2KIまたは??? URIM5KI[5]アッカド語ではUru[6]アラビア語: ???‎、 ヘブライ語: ???‎などとなっている。
配置前2350年頃のシュメールとエラム。ウルはユーフラテス河口、海岸に程近い位置にある。

ウル市はウル・ナンムによって都市計画が行われたと言われている。明確に分割された地区にわかれており、商人はその地区の1つに、職人もまた別の地区に居住していた。大通りと狭い路地があり、人々が集まるための広場もあった。数多くの水利(英語版)・治水設備によってこれらの地区が存在したことが示されている[7]

家々は泥レンガ(英語版)と泥の漆喰で建てられた。重要な建物は瀝青と葦で補強されたレンガが用いられた。ほとんど全ての基礎部分は現存している。人々はその死後、自宅の床下の間や立坑に埋葬された(一人ずつ別々に埋葬され、時には宝石や土器、武器などが副葬された)[7]ウル・ナンム王の印章に残された「ウル国」の名前(??? URIM5KI)

ウルは高さ8メートル、幅約25メートルの市壁に囲まれ、粘土壁で囲われたいくつかの地区があった。建物が城壁に組み込まれた場所もあった。ユーフラテス川が都市の西側の防御を補完していた[7]
社会と文化

ウルがメソポタミア平野におけるシュメールおよびアッカドの主たる中心都市であったことは考古学的な発見によって明白となっている。特に、王墓群の発見はその栄華を証明している。この王墓群は初期王朝時代第3a期(おおよそ前25世紀から前24世紀)に年代づけられ、貴金属や半貴石で作られた装身具など、膨大な量の奢侈品が埋納されていた。こうした貴金属類や半貴石は全て遠隔地(イラン(英語版)、アフガニスタンインド小アジアレヴァントペルシア湾)から輸入しなければならないものであった[3]。当時において比類の無いこの富は、初期青銅器時代におけるウルの経済的重要性を証明するものである[8]

この地域における考古学的研究は、古代の景観と長距離間の交流に対する理解にも大きく貢献している。ウルは、当時において現在よりも内陸まで入り込んでいたペルシア湾にあった主要な港の1つであり、メソポタミアにもたらされる交易の多くを支配していた。ウルにもたらされる輸入品(英語版)は世界各地からやってきた。こうした輸入品にはのような貴金属ラピスラズリカーネリアン(紅玉髄)のような宝石もあった[7]

ウルには奴隷(外国人捕虜)、農民、職人、医師、書記、神官などからなる階層化された社会機構が存在したと考えられる。上級の神官は明らかに巨大な富を享受し、邸宅に居住していた[7]

契約・商業記録・宮廷文書など、数万にものぼる楔形文字文書がこの都市の複雑な経済および法制度を記録している。これらの文章は神殿群、宮殿、そして個々人の住宅から発見された[7]
音楽

1929年のウルク旧市街の発掘で現代のハープに似たリュラー(竪琴)が発見された。弦の数は11本で頂部が雄牛の形状をしている[9]子供をあやすトカゲ頭の裸婦。ウルで発見。ウバイド期、前4500-前4000年、イラク国立博物館収蔵。ウル・ナンム王の即位(前2047年頃-前2030年頃).mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ウルのスタンダードのモザイク。前2600年頃ウルの王墓で発見されたウルのスタンダードのモザイク。赤石灰岩、瀝青、ラピスラズリ、貝殻で作られている。「平和」の面は安らぎ、音楽、繁栄が描かれている。「戦争」の面は王、軍隊、戦車が敵を蹂躙する様を描いている。
歴史
先史時代

ウルが創建された頃、ペルシア湾の水位は現在よりも2.5メートル高かった。ウルは周囲を沼沢地に囲まれていたと考えられる。灌漑は必要とされず、ウルにあった運河網は輸送に使用されていたであろう。しばしば都市化に必要な前提条件としてよく仮定される農業革命を要することなく、魚、鳥、塊茎、そしてがウルを経済的に支えていたのかもしれない[10][11]

考古学者たちによってウバイド期(前6500年頃-前3800年頃)のウルにおける初期の居住の痕跡が発見されている。この初期の層は土壌堆積物(sterile deposit of soil)に覆われていた。1920年代にはこの堆積物は発掘者たちによって『旧約聖書』「創世記」および『ギルガメシュ叙事詩』に描かれた大洪水の証拠であると解釈されていた。現在では南メソポタミア平野がユーフラテス川ティグリス川の恒常的な洪水に晒されて水と風による激しい浸食を受け、このことによってメソポタミア神話の洪水神話が形成され、聖書の大洪水の物語が派生したと理解されている[12]
前4千年紀のシュメール人の居住

ウルにおける更なる居住が明らかになるのは前3千年紀である(ただし、前4千年紀の間には既に都市として発達していたことは間違いない)。前3千年紀の南メソポタミアはシュメール語を第一言語として用いる地域であったが、基本的にシュメール語とアッカド語のバイリンガル地帯であった[13][14][15]。シュメール語とアッカド語の相互の影響は広範な語彙の借用統語論形態論音韻的収束等、あらゆる領域において明らかである。このため、学者たちは前3千年紀のシュメール語とアッカド語を「言語連合」として取り扱っている[15]
前3千年紀(初期青銅器時代)詳細は「ウル第1王朝(英語版)」を参照

青銅器時代のウルの重要性を把握することができる様々な重要な史料が存在する。ウルの王墓(英語版)の豪華な遺構が示しているように、ウル第1王朝(英語版)は大きな富と力を持っていたと思われる。『シュメール王朝表』の中には不正確ながらも古代シュメールの政治史、また特にウルの複数の支配者について記載されている。メスアンネパダは『シュメール王朝表』で言及されている最初のウル王であり、マリで発見されたビーズや、テル・ウバイド出土の碑文にも登場することから、恐らく前26世紀頃に実在した可能性が高いと考えられている[16]。ウルはthe City Sealsと呼ばれる種類の『円筒印章』からわかるように、既に重要な中心的都市であったと思われる。この種の印章は古代メソポタミアの都市国家の名前を書いたもの、あるいはそのシンボルと見られる楔形文字の原型で書かれた一連の記号がある。これらの印章の多くはウルで発見されており、ウルの名前が目立つように書かれている[17]

ウルは前24世紀から前22世紀にかけてアッカドの王サルゴンによって建設されたアッカド帝国の支配下に置かれた[18]。サルゴンの死後、リムシュがアッカド王に即位すると、ウル王を称するカクはアダブ、ウンマラガシュなどと共に反乱を起こしたが失敗し、ウルの城壁は破壊された[19]。この反乱の鎮圧について語るリムシュの碑文は、反乱者たちをシュメール(?u-me-ri-mu)と表現しており、これは楔形文字文書において「シュメール」という表現を用いる最古のものである[19]


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