この項目では、古代メソポタミアの都市国家について説明しています。その他の用法については「ウル (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ウル(Ur)??? or ??? Urim(シュメール語)
??? Uru(アッカド語)
??? ??r'(アラビア語)
ウルの遺跡。背景にウルのジッグラトが見える
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ウル近東における位置近東の地図を表示ウルウル (イラク)イラクの地図を表示
所在地イラク、ジーカール県、テル・エル=ムッケイヤル(el-Muqayyar)
地域メソポタミア
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度57分47秒 東経46度6分11秒 / 北緯30.96306度 東経46.10306度 / 30.96306; 46.10306
ウル(Ur)は古代メソポタミア南部にあった古代都市。ウバイド期(紀元前6500年?紀元前3800年頃)には人が居住し、紀元前三千年紀にはウル第1王朝が始まった。紀元前一千年紀に入ると新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けたが、紀元前5世紀のアケメネス朝の時代に入ると衰退。長らく忘却されていたが、紀元19世紀に入って発掘・再発見された。
現在のイラク南部、ジーカール県のテル・エル=ムッケイヤル(Tell el-Muqayyar、アラビア語: ?? ??????)が古代のウルである[1]。ウルはシュメールの重要な都市国家であった。ウルはかつてユーフラテス川がペルシア湾に注ぐ河口そばに位置する都市であったが、現在では海岸線が移動し内陸となっている。ウルはユーフラテス川南岸にあり、現代のイラクの都市ナーシリーヤから16キロメートルの位置にある[2]。
ウルは前3800年頃のウバイド期に創建され、前2600年頃に都市国家として文字史料に記録されている。初めて文字史料に登場する王はメスアンネパダである。
ウルの守護神はシュメールとアッカド(アッシリア・バビロニア)の月神ナンナ(アッカド語:シン)であり、都市の名前はこの神に由来している。UNUGKIという名前は文字通りには「ナンナの住まう所(UNUG)」を意味する[2]。
この遺跡には部分的に修復されたウルのジッグラトの遺構が残されている。これはナンナ神殿であると考えられており、1930年代に発掘調査が行われた。このジッグラトは前21世紀(低年代説(英語版))のウル・ナンム王の治世中に建設され、前6世紀にバビロンの王ナボニドゥスによって再建された。ジッグラトの遺構は南北1,200メートル、東西800メートルに及び、北東から南西に向けて現在の平野の面から約20メートルの高さになっている[3]。 英語ではUr[??r]
表記
配置前2350年頃のシュメールとエラム。ウルはユーフラテス河口、海岸に程近い位置にある。
ウル市はウル・ナンムによって都市計画が行われたと言われている。明確に分割された地区にわかれており、商人はその地区の1つに、職人もまた別の地区に居住していた。大通りと狭い路地があり、人々が集まるための広場もあった。数多くの水利(英語版)・治水設備によってこれらの地区が存在したことが示されている[7]。
家々は泥レンガ(英語版)と泥の漆喰で建てられた。重要な建物は瀝青と葦で補強されたレンガが用いられた。ほとんど全ての基礎部分は現存している。人々はその死後、自宅の床下の間や立坑に埋葬された(一人ずつ別々に埋葬され、時には宝石や土器、武器などが副葬された)[7]。ウル・ナンム王の印章に残された「ウル国」の名前(??? URIM5KI)
ウルは高さ8メートル、幅約25メートルの市壁に囲まれ、粘土壁で囲われたいくつかの地区があった。建物が城壁に組み込まれた場所もあった。ユーフラテス川が都市の西側の防御を補完していた[7]。 ウルがメソポタミア平野におけるシュメールおよびアッカドの主たる中心都市であったことは考古学的な発見によって明白となっている。特に、王墓群の発見はその栄華を証明している。この王墓群は初期王朝時代
社会と文化
この地域における考古学的研究は、古代の景観と長距離間の交流に対する理解にも大きく貢献している。ウルは、当時において現在よりも内陸まで入り込んでいたペルシア湾にあった主要な港の1つであり、メソポタミアにもたらされる交易の多くを支配していた。ウルにもたらされる輸入品(英語版)は世界各地からやってきた。こうした輸入品には金や銀のような貴金属、ラピスラズリやカーネリアン(紅玉髄)のような宝石もあった[7]。
ウルには奴隷(外国人捕虜)、農民、職人、医師、書記、神官などからなる階層化された社会機構が存在したと考えられる。上級の神官は明らかに巨大な富を享受し、邸宅に居住していた[7]。
契約・商業記録・宮廷文書など、数万にものぼる楔形文字文書がこの都市の複雑な経済および法制度を記録している。これらの文章は神殿群、宮殿、そして個々人の住宅から発見された[7]。
音楽