ウルファ
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シャンルウルファ

トルコのイスラム教では、アブラハム(イブラーヒーム)はウルファ生まれであるとされる。アブラハムの生地跡とされるところに建てられたモスク
位置
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トルコ国内におけるシャンルウルファの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度09分30秒 東経38度47分30秒 / 北緯37.15833度 東経38.79167度 / 37.15833; 38.79167
行政
トルコ
 シャンルウルファ県
 市シャンルウルファ
地理
面積 
  市域? km2
標高477 m
その他
等時帯極東ヨーロッパ時間 (UTC+3)

シャンルウルファ(トルコ語: ?anl?urfa)、通称ウルファ(Urfa)は、トルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都。2012年以降のシャンルウルファ大都市自治体とシャンルウルファ県は同一の範囲である[1]。中心市域の面積は3,668.76平方キロメートル、人口は2017年時点で921,978人で、エイユビイェ(Eyyubiye)、ハリリイェ(Haliliye)とカラキョプリュ(Karakopru)の3つの区からなる[1][2]

紀元前4世紀にセレウコス朝シリアの都市として建設されて以来、パルティアローマ帝国によって支配され、ギリシア語のエデッサの名で西洋では知られている。ウルファはメソポタミア北部の街でユーフラテス川の東80kmほどの場所にある大きな盆地に位置する。気候は、夏は極めて暑く乾燥し、冬は涼しく湿潤である。ウルファの住民の多くはトルコ人だが、市街地から離れるとクルド人も多く、アラブ人も若干居住する。
名称ウルファの裕福な家庭の女性たちを写した古写真

ウルファの街は様々な名で呼ばれてきた。

セレウコス朝セレウコス1世によって建設され、マケドニアの古都エデッサにちなんでエデッサ(古代ギリシア語: ?δεσσα / Edessa)と命名された[3]

シリア語ではウルハイ(????, Urh?y, Orh?y, Ourhoi)と呼ばれ、これがトルコ語のウルファ、アルメニア語ウルハイ(??????, Urhai, Urha, Ourha)、クルド語リハ(Riha)、アラビア語ルハー(アッ=ルハー(??????, al-Ruh?', al-Rah?'、アッ=ラハー)などの元になっている。

アンティオコス4世エピファネスの時代に一時期カリロエのアンティオキア( ?ντι?χεια ? ?π? Καλλιρρ?η? / Antiokheia h? epi Kallirro?s、カリロエは現地にある池の名)と改称されたが、その没後は元の名前(エデッサまたはウルハイ)に戻された[3]

東ローマ帝国ユスティヌス1世の時代に再建され、ユスティノポリス(Justinopolis)と呼ばれた[4]

かつてのトルコ語名はウルファ(Urfa)であったが、1984年トルコ大国民議会(立法府)で「シャンル」(?anl?、偉大な、栄光ある、などの意)の称号を頭に冠した「シャンルウルファ」が正式な都市名となった。これは祖国解放戦争におけるこの街の抵抗を記念したもので、近隣の都市の得た称号(アンテプの街が1921年に「戦士」を意味する「ガズィ」を付けてガズィアンテプに、マラシュの街が1973年に「勇敢な、英雄の」を意味する「カフラマン」を付けてカフラマンマラシュになっている)と同様の称号を得たいというウルファ出身議員の再三の要請に応えたものである。
歴史
古代のウルファ

ウルファの記録に残る歴史は紀元前4世紀以前にはないが、近隣の古代都市ハッラーン(Harran)、ドゥル(Duru)については紀元前8世紀ごろには多くの記録が残っており、ウルファの街の起源も同時期に遡ると考えられる[5]。ウルファはメソポタミア文明のゆりかごであるチグリス川ユーフラテス川流域の上流にあった。ウルファはユーフラテス川の支流バリフ川上流にあり、南の下流にはハッラーンやラッカの街がある。

トルコのムスリムの伝承では、『旧約聖書』にある預言者アブラハム(イブラーヒーム)がカナンに向けて出発した「ウル」(カルデアのウル)とはウルファのことであるとされ、これを記念するモスクも建てられている。アブラハムがウルからカナンに向かう途中で住んだハラン(ハッラーン)が、ウルとカナンとを結ぶ直線の上にあることもその証拠であるとされる。しかしイラクでは、「カルデアのウル」と前置きされているようにメソポタミア南部の古代都市ウルのことであると主張されており、歴史学者や考古学者の間でもこの考えが主流である[6]。また、ウルファはヨブ(アイユーブ、Ayy?b)の生誕地ともされている。

ウルファのある一帯は多くの帝国や民族、文明に支配されてきた。エブラアッカドシュメールバビロニアヒッタイトフルリ(フリ)ミタンニアルメニアアッシリアカルデアメディア王国アケメネス朝マケドニア王国アレクサンドロス大王)、セレウコス朝アラム人、オスロエネ、古代ローマサーサーン朝東ローマ帝国十字軍などはその一例である。
古代都市エデッサ

楔形文字の文書にはウルファに当たる地名はまだ見つかっていない。ギリシャ人が残した初期の文書には、オスロエ王国(Osroe、伝説上の建国者オスロエ[7] に由来)の首都として「オルラ」(Ορρα, Orrha)、「オルロア」(Ορροα, Orrhoa)の名で言及される。

セレウコス1世ニカトール紀元前303年に軍事植民都市をこの地に築き、ギリシャ人と東方の民族を混住させ、マケドニア王国の古都エデッサを記念して「エデッサ」と名付けた。また「カリロエ」(Kallirrhoe)という異名も記録にあり、アンティオコス4世エピファネスの治世にはシリアアンティオキア(現アンタキヤ)からの植民者によって「カリロエのアンティオキア」(Αντι?χεια η επ? Καλλιρρ?η?)と呼ばれた。


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