ウルドゥー文学
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ウルドゥー語文学(ウルドゥーごぶんがく、ウルドゥー語: ?????? ????)は、インド亜大陸北部発祥のウルドゥー語による作品の総称を指す。ウルドゥー語はヒンドゥスターニー語を起源としており、ヒンディー語文学(英語版)とは類縁関係にある。デリーで民衆の日常語として形成されたのち、デカン地方でガザル(恋愛抒情詩)などの詩作が栄え、のちにデリーでも広まった。19世紀からのイギリスによる植民地統治や独立運動をへて、ヒンディー語文学との分化が進んだ。分離独立後は、主にパキスタンとインドの作家によって創作されている。
言語

ウルドゥー語はインド・ヨーロッパ語族ヒンドゥスターニー語に属する。ヒンドゥスターニー語は19世紀に書記体における文字選択によって、ペルシア文字アラビア文字表記のウルドゥー語とデーヴァナーガリー文字表記のヒンディー語に分かれた歴史を持つ[注釈 1]。ウルドゥー語を母語とする人口は、2011時点でインド・パキスタン両国で8000万人を超え、インド北部を中心に6200万人、パキスタンに2000万人がいる[2]。インドでは憲法の第8附則にある公用語の1つで、ジャンムー・カシミール地方の公用語でもある[注釈 2][3]。パキスタンでは民族語・国家語に定められている[2]
歴史
14世紀-16世紀

ウルドゥー語が発生した地は、デリー・スルターン朝時代のデリーだった。デリーの城下町で民衆が使っていたヒンダヴィーと呼ばれる民衆語が基礎となり、それに加えてイスラーム教徒のアラビア語ペルシア語トルコ語の語彙を取り込んで成立したとされる[4]デカン地方では、バフマニー朝の時代にウルドゥー語の方言であるダカニー・ウルドゥー語(Dakan? Urdu、ダッキニー語)による創作が始まった[注釈 3]。その文学的伝統はアーディル・シャーヒー朝クトゥブ・シャーヒー朝の作家に受け継がれ、ダカニー・ウルドゥー語の作品が多数作られた[4]。この時代の文芸はダキニー文学(Dakin? Adab)とも呼ばれる[6]

ダカニー・ウルドゥー語の文芸がデカン地方で活発になった理由として、次の点があげられる。(1) アラーウッディーン・ハルジームハンマド・ビン・トゥグルクが南方に遠征した時代に、ウルドゥー語を母語とする人々が大量に南方に移住した。(2) 北インドから地理的に切り離されており、独自の文化を育みやすかった。(3) 北インドから独立したデカン地方の支配者は、独自性を主張する必要から文芸や芸術を奨励した。(4) デカンに来たイスラームスーフィーは、現地語のダカニー・ウルドゥー語で布教した。その際にヒンドゥー教の神話や伝説を、イスラームの教義を説明するための譬え話として使った[7]。これらの背景を持つダカニー・ウルドゥー語の作品は、ペルシア語の作品よりも民衆に身近で、作者の個性が明確なスタイルとして普及していった[7]

ダカニー・ウルドゥー初のマスナヴィー(英語版)(叙事詩)である『カダムラーオ・パダムラーオ』は、バフマニー朝の詩人ニザーム・ファハル・ディーン(Ni??m Fakhar D?n)が15世紀中頃に著した。この作品は完全には解読されていないが、ヒーラーナガル国の王カダムラーオと、その大臣である蛇の王パダムラーオの物語とされている[8]
17世紀-18世紀

ダカニ・ウルドゥー初の散文作品である『全ての味わい』は、17世紀の詩人ムッラー・ワジュヒー(Mulla Wajhi)が著した。ワジュヒーは享楽王とも呼ばれたムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの親友であり、ウルドゥー語とペルシア語で飲酒・愛・自由奔放などのテーマについて創作した。『全ての味わい』は1634年から1635年に書かれたとされ、ワジュヒーの庇護者だったアブドゥッラー・クトゥブ・シャーの治世10年を記念した冒険風のお伽噺だった。たたみかけるような語り口で書かれており、辻説法師のような話し言葉を模倣したものだと推測されている[注釈 4][9]。君主であるクリー・クトゥブ・シャー自身も詩人であり、ダカニ・ウルドゥー語、ペルシア語、テルグ語の作品を残している[10][11]

他方でムガル朝のデリーではペルシア語の創作が盛んであり、ウルドゥー語の創作は18世紀からとなった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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