ウルグアイ空軍機571便遭難事故
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ウルグアイ空軍 571便 (チャーター機)事故機と同型機のフェアチャイルドFH-227D
(1993年の映画撮影に使われた機体)
出来事の概要
日付1972年10月13日
概要航空管制の誤誘導
現場 アルゼンチン /  チリ国境付近・アンデス山脈
乗客数40
乗員数5
死者数29
生存者数16
機種フェアチャイルドFH-227D
機体名571
運用者 ウルグアイ空軍
機体記号T-571
出発地 ウルグアイ
目的地 アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港
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ウルグアイ空軍機571便遭難事故(ウルグアイくうぐんき571びんそうなんじこ、英語: Uruguayan Air Force Flight 571)は、1972年10月13日ウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。

乗員乗客45人のうち29人が死亡したが、16人は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が死者の人肉で飢えを凌いでいたことをめぐり物議を醸すこととなった。
事故の流れ
1972年10月
10月12日(木)

ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のラグビーチーム『オールド・クリスティアンス』の選手団とその家族や知人を合わせた一行40人が、チリサンティアゴでの試合に向かった。一行と乗員5人の計45人はウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dをチャーターし、モンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンメンドーサで一泊することとなった。
10月13日(金)

飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ (en) のすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴへ向かうこととなった。

天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。

山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした (CFIT)。この峰は後にセレール峰 Cerro SelerまたはGlaciar de las Lagrimas、Glacier of Tearsと名付けられた。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山 (en) の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。別の峰との再度の衝突で左翼もなくなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。乗客3人と乗員2人が機外に放り出され、9人が即死し、負傷が元で初日中に3人が死亡した(死亡12人、行方不明5人、生存28人)。

残った28人は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎 (en) を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2人が航空機の支柱で添え木を作った。

ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3か国からなる捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。ピアズ・ポール・リードは著書『生存者(原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』(生存者のインタビュー文書を題材にしている)でこれに触れている。

「ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された。」機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「その意味するところは」とニコリッチは言った。「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた[1]。」

生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。

救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。
10月15日(日)

アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトルに雪を詰め、金属片で突いて雪を溶かして水を溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラードは意識を回復し、危篤状態にあった妹スサーナを看病した。正午以降、3機の航空機が通過するのを目撃した。少し遅い時間に飛来した1機は機体の残骸の至近距離を通過し、翼を振った。生存者たちは、発見されたと信じた。午後に、ラグビーチームのキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給された食物の一部が誰かに食べられていることを発見した。
10月16日(月)

ロベルト・カネッサは、酷い傷を負ったラファエル・エチャバーレンのためにハンモックを組み立てた。アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、足にシートのクッションを取り付けることで雪上を歩けることを発見した。
10月17日(火)

カルロス・パエス、ヌマ・トゥルカッティ、ロベルト・カネッサ、アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部を探そうとして墜落地点から出て尾根の反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ずに体力を消耗して引き返した。
10月21日(土)

スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した(死亡13人、行方不明5人、生存27人)。
10月22日(日)

配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。

生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還 (en)』ではこう綴られている。

「高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった[2][3]。」

乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアズ・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。
10月23日(月)

生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知った。

雪崩の後に、数人の少年たちは生存の唯一の手段が山頂に登って救援を求めることであると執拗に訴えた。機体はクリコを通過したという副パイロットの主張により、一行はチリの農村部が西へわずか数マイルの地点にあると仮定した。少年達の中で最も強健で健康状態の良かったヌマ・トゥルカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3人が提案に基づき出発し、雪上に残っている機体が滑り落ちた跡を登った。
10月24日(火)

3人は、機体の尾部を発見しようとして山を登った。途中で翼の断片と機外に放り出された行方不明者5人(乗客3人、乗員2人)の遺体を発見した(死亡18人、生存27人)。尾部は発見できなかった。厳寒の高山を夜通し歩くのは困難が多いと考え、遠征を思いとどまり、山頂に一泊して機体へ戻った。
10月29日(日)

生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くした。比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡した(死亡26人、生存19人)。3日間、機体は数フィートの雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた。
10月30日(月)

猛吹雪で機外に雪が蓄積されていく中、狭い機内に閉じ込められたままヌマ・トゥルカッティの誕生日を祝った。
10月31日(火)

ヌマ・トゥルカッティと同様に、カルロス・パエスの誕生日を祝った。
1972年11月


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