ウルク?? または ?? Unug(シュメール語)
?? Uruk(アッカド語)
????? または ????? Wark?? または Auruk(アラビア語)
ウルク、カラインダシュ
ウルク(Uruk)は、メソポタミアにかつて存在した古代都市。前5千年紀には人の居住が始まっていた。前3500年頃(または前4000年頃[1])から前3100年頃まで、ウルクはこの地域における中心的な役割を果たし、この時代はウルクの名を取ってウルク期と呼ばれる。セレウコス朝時代(前3世紀-前1世紀頃)もなお多数の人が住んでいたようであるが、その後は徐々に衰退した。
ウルクは、現在のイラク領ムサンナー県のサマーワ市からおよそ30キロメートル東にある。シュメールおよびバビロニアにおける有力都市であり、この地方における最大級の遺跡の1つである。かつてのウルクはユーフラテス川に面していたが、現在では流路変更によってユーフラテス川から東に離れている[2]。
この都市はウルク期の標式遺跡である。前4千年紀のシュメールでは都市化が進んだが、その際、この都市は指導的役割を果たした。前2900年頃には、6平方キロメートルの広さの市壁内に50,000?80,000人が住み、当時において世界最大の都市であった[2]。シュメール王名表(シュメール王朝表)から得られる編年に従えば、伝説的な王ギルガメシュは前27世紀にウルクを支配した。前2000年頃のバビロニアとエラムの戦争により、ウルク市はその重要性を喪失したが、セレウコス朝(前312年-前63年)およびパルティア(前227年-後224年)の時代を経て、西暦633年から638年にかけてのイスラームのメソポタミア征服直前まで人が居住し続けていた。 ウルク(楔形文字:?? または ??、URUUNUG)はシュメール語でウヌグ(Unug)、アッカド語でウルク(Uruk)と呼ばれた[3]。その地名は現代に至るまで比較的原型を保っており、アラビア語ではワルカ(アラビア語: ????? または ?????、Wark?? または Auruk)と呼ばれている。『旧約聖書』ではエレク(??????, ?Ere?)と呼ばれており、その伝承ではニムロドが創建した都市の1つとして登場する。聖書の物語を歴史学的に裏付ける研究が盛んであった19世紀、この地名の一貫性が古代のウルク、聖書のエレク、現代のワルカを同定することを容易なものとした。ヒエロニムス(4世紀)のような古代の学者はエレクをシリアの都市エデッサ(オルハイ、現:トルコ領)に同定していたが、現在では、エレクは南メソポタミアのシュメール都市ウルクであることが定説となっている。1849年にこの遺跡を訪れたウィリアム・ケネット・ロフタス
地名
古代のバビロニアを含む現代のイラク(アル=イラーク(英語版))という地名は、ウルク(Uruk)から派生したとする見解もある[6]。ただし、イラクという地名の語源には様々な説明が行われており、ウルクから派生したとする意見が特に有力というわけではない。イラクの語源としてはアラビア語のアラカ(araqa、汗をかく、深く根差す、潤いのある、等の意)に由来するとする説明や[6]、中世ペルシア語のエラーク(er?q、低地)に由来するとの説明がある[7]。
歴史
ウルクの創建ウルク圏の拡大と植民拠点。前3600年-前3200年。
ウルクは歴史上初めて文字記録が行われた地域の1つであるが、その歴史は文字の登場よりも遥かに早く始まっている。少なくとも前5千年紀にはウルクでの居住が始まっていたことが確認されている[8][9]。この時代はウバイド期(ウバイド村落文化、前5500年頃-前4000/前3500年頃[10][1])と呼ばれ、南部メソポタミアでの本格的な居住が開始され始めた時期である(最も初期の居住跡はテル・ウェイリ遺跡で発見された前6千年紀後半のもの)[11]。ウルクの最初期の層は発掘調査が不十分であり、その具体像を描きだすのは難しい。この理由としては、イラクの政情不安によって新たな発掘が妨げられていることや[9]、同じ場所に多数の建物跡が堆積していることで、より古い時代の層を調査することが困難なこと[8]、遺跡の地下水位が高いことなどが挙げられる[8]。
後世の神話においてはウルクの建設は神話的な王エンメルカルと結びつけられている。『シュメール王名表』には、「メスキアッガシェルの子、ウルクを建設した者、ウルクの王、王となって四二〇年在位」した王として、エンメルカルが記録されている[12]。
ウルク期詳細は「ウルク期」を参照
前3500年頃(または前4000年頃[1])から前3100年頃までの時代はウルクの名を取ってウルク期(ウルク文化)と呼ばれる[8][13][14]。