ウリヤノフスク
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ウリヤノフスク
Ульяновск

ウリヤノフスク市街


市旗市章

位置

ロシア内のウリヤノフスク州の位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ウリヤノフスク (ウリヤノフスク州)ウリヤノフスク州の地図を表示ウリヤノフスク (沿ヴォルガ連邦管区)沿ヴォルガ連邦管区の地図を表示ウリヤノフスク (ヨーロッパロシア)ヨーロッパロシアの地図を表示ウリヤノフスク (ロシア)ロシアの地図を表示

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度19分 東経48度23分 / 北緯54.317度 東経48.383度 / 54.317; 48.383
歴史
建設1648年
行政
ロシア
 連邦管区沿ヴォルガ連邦管区
 行政区画 ウリヤノフスク州
 市ウリヤノフスク
市長Sergey Yermakov
地理
面積 
  市域622.46 km2
標高140 m
人口
人口(2021年現在)
  市域617,352人
  備考[1]
その他
等時帯サマラ時間 (UTC+4)
郵便番号432000?433329
市外局番+7 8422
ナンバープレート73, 173
公式ウェブサイト : https://ulmeria.ru/

ウリヤノフスク(ウリヤーノフスク、Ульяновск, Ulyanovsk)は、ロシア連邦都市ウリヤノフスク州の州都。人口は約61万人(2021年)。

モスクワからは東へ893km離れており、ヴォルガ川(クイビシェフ湖)に臨む。ロシア人が人口の8割を占め、次いでタタール人1割、他にチュヴァシ人モルドヴィン人などが住む。

レーニンは1870年にこの地で生まれ、17歳まで暮らした。旧称はシンビルスク(Симби?рск, Simbirsk)だったが、レーニンの姓ウリヤノフにちなんで現在の名称に改められた。
歴史ロシア語を文学に高めた19世紀初頭の作家・歴史家で、この町に住んだニコライ・カラムジンの記念碑

1648年にロシアの有力なボヤーレ(大貴族)のボグダン・ヒトロヴォ(Bogdan Khitrovo)がシンビルスク要塞を建設したのが町の始まりである。このクレムリ(要塞)はヴォルガ川西岸の丘の上の戦略的に重要な地点に構築されていた。シンビルスクという地名の語源は不明だが、この地にジョチ・ウルスが建てていたシンバルという要塞が語源との説もある。シンビルスク要塞はロシアの東の国境を遊牧民族から守り、この地をロシア帝国の領土として確立する役目を果たしてきた。

シンビルスクは1668年ステンカ・ラージンの乱で戦場となり、1ヶ月にわたって2万人の反乱軍に包囲された。プガチョフの乱ではエメリヤン・プガチョフが逮捕後に収監された場所でもある。この反乱を題材にしたプーシキンの「大尉の娘」では主人公・ニコライの実家がある町という設定になっている。木造のクレムリの建物は18世紀の火災で焼失し現存しない。至聖三者大聖堂(1900年頃撮影)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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