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位置
ロシア内のウリヤノフスク州の位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度19分 東経48度23分 / 北緯54.317度 東経48.383度 / 54.317; 48.383
ウリヤノフスク(ウリヤーノフスク、Ульяновск, Ulyanovsk)は、ロシア連邦の都市。ウリヤノフスク州の州都。人口は約61万人(2021年)。
モスクワからは東へ893km離れており、ヴォルガ川(クイビシェフ湖)に臨む。ロシア人が人口の8割を占め、次いでタタール人1割、他にチュヴァシ人、モルドヴィン人などが住む。
レーニンは1870年にこの地で生まれ、17歳まで暮らした。旧称はシンビルスク(Симби?рск, Simbirsk)だったが、レーニンの姓ウリヤノフにちなんで現在の名称に改められた。
歴史ロシア語を文学に高めた19世紀初頭の作家・歴史家で、この町に住んだニコライ・カラムジンの記念碑
1648年にロシアの有力なボヤーレ(大貴族)のボグダン・ヒトロヴォ(Bogdan Khitrovo)がシンビルスク要塞を建設したのが町の始まりである。このクレムリ(要塞)はヴォルガ川西岸の丘の上の戦略的に重要な地点に構築されていた。シンビルスクという地名の語源は不明だが、この地にジョチ・ウルスが建てていたシンバルという要塞が語源との説もある。シンビルスク要塞はロシアの東の国境を遊牧民族から守り、この地をロシア帝国の領土として確立する役目を果たしてきた。
シンビルスクは1668年にステンカ・ラージンの乱で戦場となり、1ヶ月にわたって2万人の反乱軍に包囲された。プガチョフの乱ではエメリヤン・プガチョフが逮捕後に収監された場所でもある。この反乱を題材にしたプーシキンの「大尉の娘」では主人公・ニコライの実家がある町という設定になっている。木造のクレムリの建物は18世紀の火災で焼失し現存しない。至聖三者大聖堂(1900年頃撮影)。