ウラディミール・アシュケナージ
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ウラディーミル・アシュケナージ
Vladimir Ashkenazy
Влади?мир Ашкена?зи
ウラディーミル・アシュケナージ(2007年)
基本情報
出生名Влади?мир Дави?дович Ашкена?зи
生誕 (1937-07-06) 1937年7月6日(86歳)
出身地 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ゴーリキー
学歴モスクワ音楽院
ジャンルクラシック
職業ピアニスト指揮者
担当楽器ピアノ指揮
活動期間1945年 - 2020年
レーベルDECCA
公式サイト ⇒VLADIMIR ASHKENAZY
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ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади?мир Дави?дович Ашкена?зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト指揮者

ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。妻の故国であるアイスランドの国籍を取得し、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニマルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。
来歴

1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた[1]。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。

1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている[2][3]

同じ年にモスクワ音楽院に入学、レフ・オボーリンやボリス・ゼムリャンスキーに師事した。翌1956年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場して優勝を果たし、これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行してセンセーショナルな成功を収めた。EMIメロディアからレコードも発売され、音楽院在学中から国際的な名声を確立した。

1960年にモスクワ音楽院を卒業、翌年にはモスクワ音楽院に留学していたアイスランド出身のピアニストの女性と結婚した。1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場しジョン・オグドンと優勝を分け合った。

1963年にソヴィエト連邦を出国しロンドンへ移住、以後ソ連のあらゆる公式記録からその名を抹消された[4]。1968年には妻の故国アイスランドレイキャヴィークに居を移し、1972年にはアイスランド国籍を取得した。

1970年頃からは指揮活動にも取り組み始め、1974年には指揮者として初の録音を行った。指揮活動の初期に共演したオーケストラにはロンドン交響楽団フィルハーモニア管弦楽団ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団クリーヴランド管弦楽団などがある。

1987年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1994年までその座にあった。1989年11月にはロイヤル・フィルを引き連れて改革の進むソヴィエト連邦に26年振りの帰郷を果たし、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行った[4]。そのほかベルリン・ドイツ交響楽団チェコ・フィルハーモニー管弦楽団NHK交響楽団シドニー交響楽団EUユース管弦楽団の音楽監督、首席指揮者のポストを歴任した。

2010年、洗足学園音楽大学の名誉客員教授に就任し、後進の指導にあたった[5]

2020年1月17日、所属マネジメント事務所を通して、演奏活動からの引退を発表した[6]
音楽
ピアニストとして

身長168センチと小柄な体格だが、演奏至難なパッセージも楽々と奏出してしまう卓越したテクニックの持ち主である。その洗練された音色と端正で中庸を得た解釈は彼の音楽を万人に親しみやすいものにしている。レパートリーは極めて広汎にわたり、クラシック音楽のスタンダードなピアノ曲の大部分を網羅しているといって過言でない。録音も膨大な量に上り、そのいずれもが高い水準を誇っている。こうしたことからアシュケナージは20世紀後半の最も重要で傑出したピアニストの一人として注目されている[2]

ショパン・コンクールをきっかけに国際的な名声を確立した経緯もあってショパン作品には精力的に取り組んでおり、その評価も高い。音楽評論家の柴田龍一は彼の膨大なキャリアの中から特に重要な録音の一つとしてショパンの練習曲全集を挙げ、「このピアニストのテクニックの素晴らしさを最高度に浮き彫りにした演奏といえるが、ここに示された彼のテクニックは、凄みや冴えで聴き手を圧倒するものではない。彼は、この難曲を少しのごまかしもなく余裕をもって奏出し、そのスムーズな語り口や美しい仕上りによって、聴き手にエチュード集の各曲に秘められた音楽的魅力を満喫させてくれている」と評している[2]

ラフマニノフ作品に献身的ともいえる姿勢で取り組んでいることも特筆すべきであり、協奏曲全曲とピアノ独奏曲のほとんどをレパートリーとしている。特にピアノ協奏曲第3番はピアニストとして4度録音している[7](2種類のカデンツァを弾き分けていることも注目される[8])他、指揮者としても振ったこともある。


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